真理との邂逅 高級霊のメッセージ   

 「わたしは生命である」神の生命がわたしの中で生き給うが故にわたしは生きている。生命は神であり神は生命である。 心身の神癒 第6話6 *****あらゆることのうち最も重大なのは、神のみが生きてい給うのであり、その神が今の今御自身を顕現しつつあるのを認めることである。私の中に常に留まっておられるのは父であり、父が父御自身の業をしていらっしゃるのである。

第三話~キリストは汝の裡なる生命なり~ 

 

 

 

 第三話 

~キリストは汝の裡なる生命なり~ 

1 神我(キリスト)の声の及ぶところ、それは広大である。それは遠く又近くに及ぶ。遍在するからである。いずれにあれ、父なる神のいます処わたしも又そこにいる。いずこにあれわたしのいる処、父なる神常にわたしとともにおわします。

2 全能なる神のみがおわしまし、それが全てである。存在するものにして神によらざるものなく、又、その子、神我を経ざるものはない。これこそが大いなる真理である。

3 世界の平和は神我の中に宿っており、すべての人々の魂が神我なる生命に気づき、父なる神の愛と美と力と智と強さとを顕現(あらわ)すことを待っている。

4 父なる神のみが生き給い、しかも神は愛であり、智であり、平和であり、唯一無二の実在であるというこの真理を認識し、把握することによって、それが自然と発露してそれ自身を顕現していくようにしさえするならば、あなたたち全員の裡には常に平安と愛とが変わることなく存在しつづけるであろう。

5 神我の力は、先ずそれに気づき、次にそのことを完全に把握し、静寂の時間(複数)を割いてその間に主たる汝の神の臨在を一層自覚するようになることによって、涵養(かんよう)される。

6 真理の把握とは、久遠の神が今、此処に実存し給うことを知ることである。『父なる神とわたしとは一つである』。父なる神はわたしより偉(すぐ)れて大きい、しかしわれわれは共に一体として働くのである。父なる神なくしてのわたしは何事をも為しえないが、父なる神と偕であれば、神の為し給うみ業はすべてわたしもそれを為すことができる。われわれは一体であるからである。

7 認識が先ず第一である。次に十分に把握をし、静寂の時間(複数)を置くようにすれば、わたしの力〔普遍なる神我の力〕があなたたち自身の意識の中で発達して行く。しかし意識は実は只ひとつあるのみであって、それが全宇宙にわたって具象化しつつあるのである。それが大生命自身の裡なる意識である。大生命がすべての形体(かたち)あるものを創造(つく)り給い、その形体の中に大生命がその栄光を意識的に顕現しうるようにし給うたのである。

8 大生命が大生命自身の意識の中に自己顕現することができるように人間の魂と体とを創造(つく)り給うたのである。このことを真に了得した時、あなたたちは神我(キリスト)の力を自分自身の生活の中に発動するようになる。

9 あなたたちは物質生活、商取引の生活から抜け出て、暫しのあいだ神の国に休らわねばならぬ。そして、常にあなたたちの生活の中に顕現しようとして待機している真の大生命と神我(キリスト)の力とを自分が着実に成長させかつ展開させつつあることを知るがよい。

10 神我(キリスト)がその儘顕現(ままあらわ)れ出ているという態度を持ち続け、その事が自分にとって意味するところのものをよく考え、ジッと沈黙したままで待つがよい。こういう生き方によって着実な成長が得られるのである。

11 この状態は誰かが云うような「空白」状態でもなければ「空無」の状態でもない。又、意識が理解もしないうちにやみくもに認容することを強制されようとする蔡の緊張でもない。

12 あなたたちはこのような極端な生き方は避けなければならない。そして、自分と父なる神との間にはいかなる分離もあり得ないという正しい理解に満ちた静けさを、自分の胸の中に保ち続けることである。

13 胸(ハート)の中でこう云うがよい、「わたしの中に留まり給うのは父なる神である。この神こそがみ業を為し給いつつあるのである」と。これがあなたたちの個我意識を遍在している神意識に結びつけるのである。

14 あなたたちがわたしを認め、わたしの生命が久遠に活発として働いていることを認める時、わたしはわたしの神性を現す。わたしの生命の久遠なる特質を認めるのは、神我(キリスト)があなたたちの中で顕現しつつあるという事である。天上天下にこれ以上の大きな力はない。天上天下のあらゆる権能(ちから)がわたしに与えられているのである。これがわたしの本態であり、神の愛の現れである。わたしの生ける臨在が常に活気凛々(りん)としてあなたたちと偕にある以上、それがあなたたちにとってどういう事になるのかを胸(ハート)の中で考えるがよい。その事をよくよく了解することの中に栄光と平安とはある。

15 肉体の彼岸に移った人々はまだ生きている。そういう人々の中には、まだ肉を保っていると思い込んでいる者もあれば、まだ夢を見ているものもいる。しかしいずれは皆生ける神があらゆるものの中に神御自身を永遠に顕現しつつある真理に目覚めるであろう。神の顕現は久遠であり、常在であり、あなたたちの裡なる神我として展開しつつある。

16 そういう風にしての結果は、あなたたちや、あなたたちの接触する人々全部にとって極めて有益なものとなるであろう。何故ならば神我――裡なる神の力――が現れ出で、すべての不調和は静かに融け去るからである。不調和なるものは、あなたたちがそれを信じ込まない限り、もはやあなたたちの上に力を及ぼすことはなくなるからである。

 

 

 

 

 

 

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17 あなたたちは、わたしを、あなたたちとは全く違ったものと心の中で考えている。聖書にある二千年前の歴史を読んで、あなたたちはわたしが過去の人物であると思っているが、しかしわたしは常にあなたたちと偕にいるのである。各人一人々々の魂に同じ神のみ霊が宿っていることを銘記するがよい、わたしの父なる神の御意志を行う者が、わたしの母であり、姉妹であり、兄弟なのである。

18 わたしの中に生きてい給い、あなたたちの中に生きてい給うのは、同じ神のみ霊である。この真理を認容し了解することによってまた、同一の神我(キリスト)があなたたちの中に顕現する。なぜならあなたたちも又一切のものに対する主権を与えられているからである。わたしを信ずる者はわたし以上に大いなる事さえ為すであろう。

19 『神我(わたし)』(I am)は最奥(さいおう)の神霊意識である。神我(キリスト)の意識は神の意識であり、子の中に現れる父なる神である。

20 努めてこの真理を堅持することである。そうすればあなたたち一人々々の生活の中にこの真理の力が発揮されるであろう。あなたたちはすでに自覚しているのである。現に生きているのである。この事を自覚するがよい。かくして、あなたたちの生き方があなたたち一人一人の人生における最も支配的で最も重要な要因なのである。

21 あなたたちは自分が久遠に生きるものであること、自分が生命そのものであること、大生命から離れては生きえないこと、を今迄に考えたことがあるだろうか。あなたたちの意識は大生命が肉体の中に自己顕現する媒介なのである。肉体も又大生命を離れて生きることはできない。意識は大生命それ自身の中にあり、裡にあって指図する力である。『わたしは生命である』。

22 この力は個我を通して現れる。従って外部のエネルギーはすべて障害であることを知るがよい。神我(キリスト)は常に活動しており、決して静止することはない。神我は常に裡から働いている創造エネルギーであり、常に活動している沈黙であり、常にみ業を為したまう父である。静かに神我に傅(かしず)けば、神我の息は、無音の中に、秩序正しい働きによってあなたたちの肉体のあらゆる分子を更新する。

23 私の教えは、『吾は生命なり』である。あなたたちとわたしとは、神のおん前においては同じである。神のみ霊がわたしを造り、神の全能の力がわたしに宿ってい給う、そしてこの同じ神のみ霊があなたたちの中に留まってい給うのである。

24 わたしは全人類を他所(よそ)にして、自分だけが神性であると宣言するために来たのではなく、わたしは全人類の中にあり、全人類はわたしの中にあること、わたしの言葉(複数)をよく理解することによって、あらゆる人々が神我(キリスト)こそ人類の救い主であることを主張するようになることを示すために来たのである。

25 神の分霊がわれわれ各人の中における生ける神の臨在である。即ち、神が神御自身を現しつつあるのである。それ以外にはあり得ない、なぜならば神のみが独在(ましま)すからである。太初にそうであったように神のみが生きてい給うのであり、また未来永劫に神のみが生き給うのである。神我(キリスト)は分離しているのではない。神我はあなたたちの中に、そして又わたしの中に等しく臨在している。神我とは、御自身を表現し給う生ける神である。わたしが、『吾は命なり』という所以(ゆえん)がここに存するのである。父なる神は御自身の中に生命を持ち給い、その子が同じ神の生命をその子自身の中に持つことを許し給う。

26 わたしは神の子であるから、わたしが知っている神の創造計画の中に、一定の地位を占め、かつ又それをわたしは自覚する。この創造の過程において求めたものはそれに対応する地位を占める。何故ならわたしは自分が一切のものに主権を有(も)っていることを証明(あかし)したからである。あなたたちも又わたしを信じ、わたしの言葉に基づいて行動をするならば、わたしと同様にその事を証明しうるであろう。

27 ヨハネは、『始めに言葉ありき、言葉は神と偕なりき、神は言葉なりき』といった。ものみなすべて神のみ手によりて成れり、創造(つく)られたるものにして神によらで成れるものひとつだに無し。生命彼の中に在りき、生命は人の光なり。この光、闇の中に輝き、闇は光りに勝たず。彼は世に出で来りし人すべてを照らす真の光りなりき。彼は世に在りき。世は彼の手の下にありしも、世は彼を知らざりき。彼はおのが身内の者の許に来れども、彼等は彼を受け付けざりき。されど彼の名前を信ぜし者は神の子らとなりぬ。

これらの者は、おのれが、血に属せず肉の意志にも人の意志にもよらず、父なる神によりて生まれたるを知る者なり。この言葉が神となりて吾らの中に留まりぬ。

28 以上が当時のアラム語(*6)で書かれたヨハネの言葉の正しい解釈である。従って、自分が血に属せず、肉の意志によらず、父なる神より生まれたことを知っている人々は既に今久遠の生命を亨受(きょうじゅ)していることが明瞭に示されていることが解るのである。神がものを創造(つく)るということは、神おんみずからがそのものに成ることである。(*7)闇は人の光に勝てなかった。なぜならば、この光は世にうまれ来るすべての魂に点火する光りであるからである。全人類の中に光りが実存する。太初(はじめ)よりそれは全人類の中にあったからであり、人の中に実存するこの光りこそ神の分霊(キリスト)である。(*7)

29 これが即ち、すべての生ける魂の中に宿る言葉である。まこと、生まれ出ずる嬰児はすべて神の言葉によって生まれるのであり、その言葉とは即ち久遠に生きる神我である。このことに関しては、肉は何ら関知しない。

30 各人は自分の未来を、現在における想念と行為とによって形成する。『今』が常に現在である。『今』においてのみあなたたちは創造することができるのである。未来においても、過去においても創造することはできないのである。

31 神我は創造する力である。この力によってのみすべては出現する。この悟りがあなたたちの意識において堅固となった時、人間心による理解など及びもつかぬ自在の境地が出現する。

32 世俗的意識ではこの真理の栄光は理解できないが、大悟によってあなたたちの俗的意識もキリスト意識に昇華する。

33 何を企てるにしても、神は断じて失敗し給わず、わが裡にて働き給うは神にこそあれ――この態度を堅持することである。かく悟れば、あなたたちにとって、あらゆることが可能である。あなたたち自身だけでは、あなたたちは無(ゼロ)である。しかし神と偕となれば、あなたたちは一切(すべて)である。故に、『わたしと神とは一体である』と常に云うがよい。

34 唯一の真実かつ真価ある態度はこのような態度であって、このような態度こそがあなたたちを俗界より挙げるのであり、かくてあなたたちはホンモノ、即ち神我(キリスト)意識の中で機能(はたら)くようになる。あなたたちは既に俗てき感官より挙げられたのである。今後はすべてがこれまでと違ったものとなるであろう。



35 

あなたたちは、あなたたちを取り囲んでいる外側のものだけにしか気付かないのか。もしそうであれば、あなたたちは依然として俗的意識の中に留まっているのである。しかしわたしはあなたたちに断言する、神のみ霊が自分の意識を通じて顕現し、しかも、それは外からではなく、裡から来るものである。と悟るのが唯一真実の悟りである。



36 人間の神我性は既に完全無欠である。神我は、あなたたちの裡なる愛してやまぬ神、すべてが神なるが故にすべてを愛する神の、不偏不党の、非利己的な現れである。人類はこの「わたしとの一体」に入らねばならない。

37 これが、「内なるもの」を因とする「外なるもの」の進化であり、常に前へ前へ、上へ上へと内なるものの真の顕現を促してやまないのである。「外なるもの」は「内なるもの」とならなければならない。又、「内なるもの」は「外なるもの」とならなければならない。

38 神我の栄光が肉の中に完全に顕現する時が来るであろう。なぜならば、肉はこのことには何ら関知しないからである。神我は至高であり、その支配は必ず最高となるべきことが全能者の天命である。人の裡なるみ霊が「永(とこし)えに生きる吾」なのである。

39 キリストは神であり、神はキリストである。神の分霊があなたたちの中で『今』働いておられるという神智を吾がものとしたことを歓ぶがよい。

40 この真理の悟りの中に生きよ、そうすれば真理は必ず生活の中に顕現する。『征服者』キリストがあなたたちを解放するであろう。

41 神我を信ずる者は神より生まれし者であり、何ら肉即ち人の衝動によって生まれた者ではない。地上における何人をも父と呼んではならぬ。天に在す方こそがあなたたちの父であるからである。

42 わたしのこの説法の意義は恐らくはあなたたちによくは把握されていないかもしれない。あなたたちは肉の中に生まれはしたが、肉は何ら決定的なものではないのである。あなたたちは神霊(みたま)より生まれたのであり、神霊がありとしあらゆるものを創造(つくる)る唯一の創造力である。これが神と偕にありし言葉、神なりし言葉、肉と化した不死の言葉である。

43 神を見た者は一人もいない。しかし神は吾が裡なるキリストによって現されている。故に何人であれ吾を見る者は父なる神を見る者である。

44 神は御自身を分離されはしない。神は御自身の中に、御自身の肖姿(にすがた)を創造(つく)り給う。これがあらゆる人の裡にある光りである。

45 わたしたちはすべて同一の生命に属する。なぜなら生命は生命自身の中で異なったものとは成りえないからである。形体には生命の〔顕現〕程度はあるが生命それ自身は非人格的であり、生命みずからの創造(つく)った形体を通じて自分自身を表現する。

   

 

 

 

 

 

 

 

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46 無限なる父の大いなる智慧は、父御自身の実現のためにあらゆる形体を創造(つく)り給うた。その中にある生命はすべて同一である。それは唯一の根源からのみ流れ出で、その創造り給いしすべての形体を通じてながれ給う。それは最微より最大に到るあらゆる形体の中に顕現してい給う。生命は生命の創造(つく)り給うあらゆる形体に生命自身を顕現しつつあるのである。

47 生命である神霊によらないで存在するようになったものはひとつもない。生命の『顕現』程度は、生命を認め、生命を表現することによって理解される。故に、御自身に似せてわたしたちを創造(つく)り給うた神は、わたしが生命を表現し、生命が神なることを知る程度に応じて、わたしを通して顕現(あらわ)れ給う。

48 神の生命を自分自身の意識において認め、かつ表現することによって、大生命の顕現媒体となる。意識が神の自己表現する点であり、同時にまた自己の裡にまします神我という神を表現する点である。

49 このことをあきらかに自覚するならば、その時こそ大生命そのものの秘密が吾がものとなったのである。

50 自分が肉によるのでもなく、人間の意志によるものでもなく、神なる神我(キリスト)によって生まれたものであることを知る人々以外には、今尚、この真理は大衆に対しては秘められている。

51 故に、わたしは、かくの如き大生命なのである。天上天下における一切の権能(ちから)がわたしには与えられている。『先ず神の国とその正義とを求めよ、そうすればあらゆるものがあなたたちに加えられるであろう。』

52 意識は大生命が表現される程度を決定する。わたしは自分が神の生命であること、『わたしは神なる神我であることを自覚している。わたしは、わたしの中で働き給う父なる神の実子である』。

53 キリスト意識は、天上天下のあらゆるものの対して支配権を持ち給う父なる神を示現する。これがまことのキリスト意識である。

54 わたしが嘗てこの地上に生き、世の末まで、すなわちすべての人々がこのキリスト意識を認めかつ実現してわれわれが皆一体となるまで、依然としてあなたたちと偕にいるのは、この為なのである。

55 この真理の認識と実現とによってわれわれがすべて一体となるように、わたしは辛抱強く待っている。真実については、人は争わない。虚偽(ニセモノ)についてのみ人は争う。自分が生きていること、現に生きつつある事実には人は争わない。人はただ、様々の信仰や観念(かんがえ)について争うのみである。死に定められたる者は肉の世からより優れる世界への出口を求めている。故に死に定められた者は自分自身と問答をする。しかし神我(キリスト)は決して問答はしない。神我はすでに直接知っているのである。故にニセモノとホンモノとを見分けることは容易である。

56 "I am"は聖語である。"I am that I am"(*4)。各時代の予言者たちはこの永遠の秘密を知っていたが、それを理解しうる者は僅少にしかすぎなかった。しかし、いずれはすべての人々が理解するようになるであろう。なぜならば、子が父なる神を顕示し、すべての者をして神を知らしめることが、父なる神の御意志であるからである。わたしの父の御意志を行うものがわたしの母であり、姉妹であり、兄弟である。

57 神我の力をより深く悟るにつれてその力が神の愛と英智とであることがハッキリと解ってくる。なぜならば、神我は神の子であるからである。わたしは律法を破壊するためではなく律法を成就するために来た、といったが、それに間違いはなかったのである。なぜなら、わたしは天に在る大いなる力の教えを地に――すなわち、裡なる神我の力を外に――もたらしたからであり、この力とは即ち神の霊と智慧である。それは、調和や平安のごときあらゆる善き事を築きあげる者である。それは永遠に存続する、しかし不調和は無知の中にのみ留まる。無知は死であり生命ではない。

58 わたしはあなたたちが、一日の若干部分をこの無言の成長に充(あ)て、かくして自分の全存在に平静と調和とをもたらすことを望む。さまざまの喧(かまびす)しき社会問題や戦争の取り沙汰に囲まれたあなたたちの毎日の生活においては、このことは極めて肝要である。

59 第一に、あなたたちは静かなる臨在感、常に活動してやまぬ或る静けさを意識するであろう。神の常に活発たる臨在の中におけるこの沈黙の何という美しさ、それはあなたたちの生活の中における神の強大なる力と調和との示現である。これが善き、健全なる判断力と明晰なる洞察力とを涵養(かんよう)し、やがてはその結果があなたたちの身体と環境とに確固不動のものとして現れるのである。

60 肉体の胸(ハート)における沈黙は神霊(みたま)の胸(ハート)と結びつくようになり、かくて血液の完全なる環流をもたらす。

61 来る日も来る日も諄々(じゅん)としてあなたたちに説かれる神のみ教えを父なる神に感謝するがよい。

62 四六時中神を念じるがよい。神、わが胸(ハート)にましますからには敗れることはありえない。自分の力で事を成し遂げうると思う者もいるが、神によってのみ何事も成就しうるのである。

63 あなたたちの心は常に不足の状態にあるのか。与える状態には全くないのであるか。しかし、与えることこそ受けることなのである。父なる神と一体となるためには、神に自分自身を全開し、神の愛と智慧との尊き力が自分を通して流露(りゅうろ)するようにしなければならない。父なる神のみがあらゆるものの供給主なのである。およそ造られたものにして神無しに成されたものはひとつも無いのである。

64 胸(ハート)と魂とが歓べば肉体は安らぎ、全細胞が臨在に感動する。神の臨在には到らぬ隈(くま)はないからである。

65 神の臨在より生ずる充ち満ちた歓びと、神と偕(とも)なる至福は、他のいかなるものよりも神我(キリスト)意識を助長する。外を観るな、内を観よ、そして自分が実在であることを知るがよい。自分(アイ)は実在(アム)である。自分は真実なるものである。自分は久遠である。自分は神の霊である。自分は生命である。このことを悟った時、魂は歓喜する。外部よりの雑音が静まり、神に属せぬものすべてを観破した時にこの法悦(よろこび)は来るのである。

66 生ける神のみ霊、すなわち神我(キリスト)は内側より外なる肉の体を通じて呼吸(いき)する。神性エネルギーは常に内より自己を現すのであって決して外からではない。

67 頭脳は神霊(みたま)によって養われ、精妙なるものは粗雑なるものを支配し、見えざるものは見ゆるものを通して流れる。父なる神を見た者はいないが、あなたたちはその子を見ている。わたしを見た者は父なる神を見たのである。

68 裡なる力を外に出すために静かに瞑想する時間(複数)を選定することの重大性をよくよく理解させるために、わたしはこのことをあなたたちに明らかにしているのである。

69 齷齪(あくせく)した生活から離れて天国に入り、吾が内にありて吾を通して働く者に気付くことである。その力が自覚されれば肉体は更新され、心も更新され、心情(こころ)に平安と愛とがもたらされる。神我すなわちあらゆるものを支配する力を悟るとともに、周囲の物事の運び方がずっと円滑になり、心や肉体や環境の諸状態も調和し始めることに気づくであろう。

70 やがて自分の内にまします父なる神こそ自分の実存、自分の実相であったことを自覚するようになった時、あなたたちはもはや不調和も環境も顧慮(こりょ)する必要はなく、常にすべてを統御するようになる。何故なら裡なる神が、我が胸と心の王座に就き給うたからである。

71 静かなる瞑想と悟りの時間(複数)はあなたたちの意識に神我(キリスト)の完全さをもたらす。その後はもはやあなたたちは外部の状態(ありよう)を顧慮する必要はなくなる。不調和に影響されることもなくなる。それ自身愛であり、平安であり、英知であり、久遠の真理であるものと偕なるが故に、あなたたちは常に平静であり平安である。

72 愛を求めるな!愛を与えよ!これこそが霊の真の栄養である。いかなる場合にせよ愛ある処、憎しみと羨(うらや)みと嫉みとは消えるからである。

73 愛は恐怖(おそれ)を駆逐(くちく)し、不義に抵抗しない。返すに愛を以てする時、心平安となる。その時始めて父なる神は働き給いすべてを克服し給う。不義に怒れば、心は騒ぎ乱れ、羨み、嫉妬(そねみ)、怒りにみたされれば、愛は消える。愛こそはかくのごときものすべてを消し去るこの世における唯ひとつの力である。

74 心平安となって始めてあなたたちの中に神がおんみずからを顕現(あらわ)することが可能となるのである。

75 およそ存在する唯ひとつの力は愛の力である。愛の力こそが平和と調和とをもたらす。神我の力の前には、爾余のすべては過ぎ逝き、無の中に融け去る。わたしは主である。わたしはすべてに打ち勝った。あなたたちも又そうなるのである。何ものもあなたたちを傷付けることはできない。なぜならば、あなたたちは肉を纏(まと)える神であるからである。

76 兄弟姉妹よ、あなたたちがこのことを聴いてそれに従うならば、あなたたちは、あなたたちの父なる神から当然あなたたちのものとなるべきものを獲得することができるのである。「わたしのものはあなたのもの、あなたのものはわたしのものである」。

77 神があなたたちをこの世に送り給うたのである。あらゆる瞬間毎に神はあなたたちの胸(ハート)に語りかけておられる。心臓の鼓動ひとつひとつが裡なる神の生命である。心臓に神のましますのを意識するとき、あなたたちはすべての人々平和に暮らすようになる。自分の隣人を自分のように愛することこそが本当の宗教なのである。

78 何故ならば光を受けた者はすべて光りとなるからである。この故に、おお睡(ねむ)れる者よ、目覚めよ、死者の中より起ち上がれ、そうすればあなたの願貌(かお)にはキリストが輝くであろう。

79 あなたたちは神の賢き息子、娘として行動するように厳重にいましめ、かつ自分の時間を『今』活用するようにせよ。なぜなら『今』こそが久遠であるからである。

80 神我を以て考えることは久遠なるものの中において考えることである。久遠の今の中において考えよ、なぜならば『今』の中においてのみ創造はなしうるからである。ああ、あなたたちにもハッキリと解るようにやさしく解明することができたら――今即久遠である。

81 この話しをした以上、わたしは、この法話の最終の主要点である「祈り」に触れざるをえない。わたしにとって祈りとは生命の息の呼吸であった、また今でもそうである。それはあらゆる界層、あらゆる世界の中での最も強力なものである。

82 祈りの力は、祈りと答えとはひとつであるという事実の中に存する。自分と神とは一体である、父なる神の御意志が自分の中で為されるのである、という深い深い理解を以て祈ることである。神の宿り給うあなたたちの裡なる聖なる中心の中に入るがよい。そうすれば、そこでわたしはあなたたちの為に宣言をしよう。

83 あなたたちがこの強力な武器〔前述の祈り〕を無智な使い方をしてはこなかったことをわたしは喜ぶ。われわれの愛するこの同胞〔著者〕は若いときに〔真〕の祈り方を教えられた。子供の頃よりすでに霊導されていたので、彼の生涯は波瀾万丈であり、多くの人々に聞かしてやりたい程である。彼は生まれつきの霊媒であり、まだいたいけない子供の頃にすでに顔が触れ合わさんばかりにわたしの顔を見たことがある。これなどは彼の数多い体験のひとつであった。大師達の法話の媒体となる方法を学ぶために彼はヒマラヤに連れて行かれ、その結果わたし自身が彼に懸(か)かれるようになったのである。(*8)

84 やがて彼が世に出る時が来た。健康に恵まれ、その魂は若い。われわれはこれから先も長期にわたって彼を肉体の中にとどめておきたい。なぜなら、この地上における彼の仕事はまだ終わってはいないからである。

85 たいていの祈りは〔神と人との〕分離という誤った考えをもって捧げられている。特にあなたたちの教会や礼拝堂において著しい。神は遙かに遙かなる存在である――という信仰の仕方をしているからである。しかし神はあなたたちの手や足よりも猶近くにましますのである。

86 しかしながら又、そのような祈りでさえ無効に終わることは決してない。しかしそのような祈りでは求めている価値(もの)が全面的に得られるわけにはいかない。なぜなら、この種の祈りには分離の波動が混ざっているからである。そのため、助けてあげたいと思っている相手の人でもそれ程には助けてはあげられないものである。

87 全能者の宿り給うおのが密室に入り、神の御意志の成就を観ずるがよい。それ以外のことを見たり聞いたりしてはならぬ。緊張することなく疑うことなく、自分が助けてあげたいと思う人々の上に、神の一人子、神我(キリスト)の勝利が実現している様を観ずるがよい。そうすればその通り成就する。

88 あなたたちの多くが読んだことのあるわたしの記録〔新約聖書物語〕には病の癒えた物語りが幾つもある。それらの癒しは同一の方法、すなわち、すべてを支配する力を認めかつ現わすことによってもたらされたのである。これには何ら肉は与(あずか)り知らぬのである。

89 強烈なる、平静な確信を以て神我(キリスト)より語れば、偽(ニセ)の状態は完全に消える。神は遍在し給うが故に障礙(しょうげ)の霊も瞬時に神に触れさせることが出来る。

90 真の祈りの価値を評定することはあなたたちにはできない。霊的事実(複数)は言葉で表現できるものではない。自分の荷物を外なる神に背負わせ、〔祈りがかなえられるかどうか〕怪みながらその結果を待つ愚(ぐ)を犯してはならない。神は吾が裡にあり、祈りとその答えとは一体にも等しいからである。

91 神はすべての中にすべてを貫いて生きてい給う唯一無二の生命である。神こそ実在である。肉の感官は神については何も知らぬ。外なるものは内なるものとなり、内なるものは外なるものとならなければならぬ。このようにして祈るがよい、『父よ、貴神(あなた)はわたくしを御存知です。貴神が唯一無二の生ける実在、唯一無二の創造主におわしますことをわたくしは知っています。わたくしは貴神と一体です。わたくしが貴神に求めるものはすでに成就されています。わたくしの言葉は空(むな)しく還ることなく、その本来の目的を遂げます』。

92 神がわが胸の中にましまし、又、最も遠い遙かなる空間にもましますを知ることは、東西南北すべての国民と一体であるということである。

93 すべてのものへの愛の思いの中に生きよ。そうすればあなたたちの生活は一つの連続せる祈り、すなわち、すべてのものの父なる神よりすべてのものへの〔神の無限なる愛・智・生命・美・調和等の〕不断の流出となるであろう。

94 わたしの祝福は恒(つね)に、そして永遠(とこしえ)にあなたたちと偕に在る。

わたしの愛と平和とをあなたたちに贈る。
   沈黙   祝福 
天に在しますわたしたちの父なる神の御意志が今地上に為されつつある。平安あなたたちと偕にあれ。 

 

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56 "I am"は聖語である。"I am that I am"(*4)。

 

参考、

神の御子キリストの誕生を祝うクリスマスのメッセージとは何でしょうか。それは一言で言えば、「インマヌエル」(「神は私たちと共にいます」という意味のヘブライ語)です。そもそも神は存在するのでしょうか。存在するとしたらどこに存在するのでしょうか。昔、モーセが荒れ野で神と出会った時に、モーセが神に「あなたの名前は何というのですか」と問うと「私は在る、在るという者だ」と神は答えました(出エジプト記3:14)。すなわち「存在する」という意味の名前だと答えます。それは旧約聖書が書かれたヘブライ語では「ヤハウエ」という名前になります。「私は在る、在るという者だ」は英語では “ I am that I am” という表現になります。すなわち、「ヤハウエ」というヘブライ語の神の名前は、英語で表現すると“being”(存在)になります。

神はどこにおられるのでしょうか。古代や中世の人々、また私たちも幼児の時を思い返すと、天上・地上・地下という三階層で成り立つ世界観に基づいて、神は天上におられると考えてきました。神は天におられるのでしょうか。フロイト以後の近現代人は意識の下に無意識の層があることを知りましたが、神は無意識の層におられるのでしょうか。そうではないのです。

 

私たちには命が与えられていますが、神は「命の源」なのです。私たちが生きているのは命の源である神によって生かされているのです。神は私たち一人ひとりの存在の根底を支えていてくださるのです。神は私たちの存在の根底におられるのです。私たちが意識していようが、意識していまいが、私たちが生きている限り、私たちの存在を根底から支えて、共にいてくださるのが神です。たとえて言うと、太陽が照っている時に戸外にいると、影ができますが、神は影のような存在なのです。神は私たちに寄り添って、私たちの存在を影で支えていてくださるのです。

     これに気づいた旧約聖書の詩人は次のように表現しています。

     

     「主よ、あなたは私を究め、私を知っておられる。
     座るのも立つのも知り、遠くから私の計らいを悟っておられる。
     歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。
     私の舌がまだ一言も語らぬ先に、主よ、あなたはすべてを知っておられる。
     前からも後ろからも私を囲み、御手を私の上に置いていてくださる。
     その驚くべき知識は私を超え、あまりにも高くて到達できない。
     どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。
     どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。
     天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、
     陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。
     曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにいまし、
     御手をもって私を導き、右の御手をもって私をとらえてくださる。」(詩編139:1-10)

     「死の陰の谷を行くときも、私は災いを恐れない。あなたが共にいてくださる。」(詩編23:7)

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