真理との邂逅 高級霊のメッセージ   

  「わたしは生命である」神の生命がわたしの中で生き給うが故にわたしは生きている。生命は神であり神は生命である。 心身の神癒 第6話6 *****あらゆることのうち最も重大なのは、神のみが生きてい給うのであり、その神が今の今御自身を顕現しつつあるのを認めることである。私の中に常に留まっておられるのは父であり、父が父御自身の業をしていらっしゃるのである。

2023-04-01から1ヶ月間の記事一覧

「悟りの道とは絶え間ない探究です」

一つのものに、こだわらないことが大切です。 まわりに垣根をめぐらして、 新しいインスピレイションが 入らないようになってしまったら、おしまいです。 悟りの道とは絶え間ない探究です。 境界が絶え間なく広がっていくものです。 なぜなら魂の進化にとも…

「霊的実在について疑い抜いた末に生まれる信仰」

私が信仰という用語を用いる時、それは何の根拠も論理的背景もなしに、好きなように信じるという意味ではありません。 知識という基盤をもち、霊的実在について疑い抜いた末に生まれる確実な根拠の上に築くものであらねばなりません。 シルバーバーチの霊訓…

大きな悟りは大きな悲しみから生まれるものです。

大きな悟り 人生は”埋め合わせ”の原理によって営まれています。日蔭のあとに日向があり、嵐になれば避難所が用意されます。光と闇、嵐と晴天、風と静寂ーーこうしたものはすべて大霊の配剤なのです。 大霊は生命活動の全側面に宿っております。闇があるから…

第十四話  これが久遠の生命という真理に至る道である。 「わたしは父の中におり、父は私の中にい給うことをあなたたちは知らないのか」。

奇跡の御言葉 40 み霊のみが唯一の実在であることを悟るがよい。 このみ霊が人の魂と肉体とに活力を与え、およそ存在しうる唯一の力なのである。 人は神の中に生き、動き、その存在を保ち、かつ神はあなたたちの中に生きている。 神が(あなたたちを通じて)…

第七話 40~45   この内奥の平安は大いなる謙譲(へりくだり)の極みが「われ自らは何事をも為す能わず、常にわが裡に留まり給うは父、その父こそみ業を為すなり」である。

40 あなたたちが信じさえすれば、そのことはあなたたちにもあてはまる。よく理解することによって自分の意識を肉体、を超越したみ霊の状態に高め、其処で自分自身の意識を通して父の力を受け、かくて永遠に君臨する力を現示するがよい。 41 神の子には天上天…

あなたたちの愛に対して利得や報酬を求めてはならない。

第十三話 105 あなたたちの愛に対して利得や報酬を求めてはならない。 又あなたたちの愛を人々の前で見せびらかしてはならい。 ひそかに愛を為せ。 人を喜ばすためではなく、 神の愛のために、 手の届く限りのことをすべて為せ。 心身の神癒 人知れず善い行…

第十一話 54~60 外側の物事に夢中になってはならぬ、様々の言説に心を奪われてはならぬ。久遠なるものに一向(ひたすら)専念せよ。これが道理への道である。

54 外側の物事に夢中になってはならぬ、様々の言説に心を奪われてはならぬ。久遠なるものに一向(ひたすら)専念せよ。これが道理への道である。 55 多くの人があなたたちを色々な言葉で取り囲むであろう。多くの人がやって来ては色々な話をするであろう。 …

神がこの体験を私にくださったのは、この体験を分かち合うことによって、知らない誰かを助けることができるからです。 動画21分。・・・・・・・ イエス・キリストが真理について愛について述べたもう。

第一話 われは蘇りなり。生命なり、すなわち神の愛なり。 わたし自らが蘇りである。命である。わたしを信じるものは死すとも生きる。 わたしの中に生き、かつ信じるものは決して死なない。 1 神は愛であり、愛は神である。 しかしそのことがなんであるかを知…

南無阿弥陀仏 とは

南無とはナモ「礼拝・おじぎ・挨拶」を意味するナマス(梵:namas)連声による変化形。礼拝から転じて帰依を表明する意味に用いられ、「私は帰依をしますと」解釈される。 「阿弥陀仏」は、その二つの仏名である。「アミターバ無量の光」と「アミタユース(無…