真理との邂逅 高級霊のメッセージ    無限なる愛と無限なる叡智をあなたへ

示す者なきときは、すなわち目前なれども見えず。説く者なきときは、すなわち心中なれども知らず。   「わたしと神とは一体である」と常に云うがよい。心身の神癒より。 理性を超えたものは悟るしかない。

霊人の証明

 

「霊人の証明」ー続々丹波哲郎死者の書より  

 

さて、ではそのスウェーデンボルグが『霊界日記』において報告している「霊人」の特徴とは何なのか。長南年恵の生理、行動と共通する点はあるのか、無いのか。話をその点に絞って検討してみることにしよう。  

 

まず、冒頭の雄吉(長南年恵の弟)の「事実証明願」にも記述されている「大小便という生理現象がない」ことや「絶飲絶食の状態であった」という“事実”については、次のとおり説明付けられる。

 

つまり、「霊人」という存在は、まったく「食物をとらない」のである。だから、生理現象がないというのも、しごく当り前の話になる。  

霊界における「食物」は、このように説明されている。

 

すなわち、霊人たちは現世におけるような「食物」や「飲物」を必要としない。

 

というのも、人間がなぜ「食物」や「飲物」を摂る必要があるかといえば、肉体を保持し、健康な状態を保つため、というのが最大の理由であるわけだ。

 

ところが霊人というのは、そもそも。“肉体”を持っていないのだから、必要ないのは当然なのである。人間界における“肉体”に相当するのは、“霊体”と呼ばれるものだが、

 

これは「霊界の太陽」から発せられる「霊流」というものによって生かされる仕組みになっている。“霊体”を保つために、「食物」や「飲物」にあたるものをことさら摂る必要などないのである。  

ただ、人間界から精霊界へ渡ったばかりの時期においては、禁煙をはじめて間もない人間がしばしばロさみしさを覚えるのと同様に、過去の習慣の名残りから、「食物」や「飲物」を求めるケースはあるという。(しかし、その場合にも実際に「食物」や「飲物」を摂るわけではなくて、その“幻像”を口に運んで食事をしたような気になってみるだけである。だが、やがてその愚かしさに気付くと、まったく欲しがらなくなってしまうのだ)  

 

また、スウェーデンボルグは「天使たちにとって、食物にあたるのは“愛”であり、飲物に相当するのは“知性”である」という意味のことを語っている。

 

次のポイントは、長南年恵が実際の年齢は45歳にもなっていながら20歳そこそこにしか見えなかったという“事実”である。これは、弟の雄吉が10数年ぶりに郷里で姉と再会して驚いたと語っていることでもあり、現在残っているその当時の肖像写真を見てみても、誰もが同じ感想を抱くに違いない。  

 

この“事実”については、スウェーデンボルグ『霊界日記』のなかで語っているように、次のとおり説明できる。  

霊たちの時間の観念に関連して私はひとつだけ面白いことをいおう。  

ここに2人の霊がいたとしよう。1人は人間界的にいえば20歳過ぎの青年の顔つき、1人は同じように60歳を越えた老人の顔つきをしている。あなたは、どっちの霊が若くどっちが年寄りだと思うだろうか。この世のいい方でいえば青年は若く、老人は年をとっているということになるが、青年のほうは老人より数千年も前に死んで霊界に入っているのである(霊はふつう年はとらない)。」  

つまり、「霊人」においては、霊界に入ってから長い経歴を持つもの(長老)ほど、見たところ「20歳ぐらいにしか見えない」のだ。というのも、「霊界における年の取り方」は、たとえば70歳で死んだとすると、人間界とは逆にだんだん若返っていき、「20歳」までさかのぼると、そこで年齢がストップする。また、幼くして死んだとすると、これはだんだん成長していって、やはり「20歳」でストップすることになるのだ。だから、長南年恵が「霊人」だとすると、「20歳くらい」の若さに見えたとしても、決して不思議でも何でもないのである。  

 

3番目のポイントは、長南年恵が絶飲絶食状態にありながら、たいへんな重量の水桶を軽々と運んだり、大の男を相手にいろいろ力くらべをしても簡単に負かしてしまうほど、大力の持ち主であったこと。

ところが、なぜかその背後に誰か人が立つと、奇妙にその力は失われてしまった、という“事実”である。これも、「霊人証明」の有力な材料のひとつなのだ。  

 

私はその霊の後に回ってその霊の肩越しに村の様子を見回ろうとした。するとその時彼の視線が強く光って私を見すえたように思った。つぎの瞬間、私はなぜかわからぬうちに地面に投げとばされていた。彼は私の手を取って起こしながらいった。  

 

「人(霊)の背後に回るは霊界ではもっとも非礼の行為なり。汝、以後気をつくべし」

 

  霊の背後に立つことが非礼なのだという霊界の不思議な礼儀については、そのようなことをすると前の霊が

 

霊界の太陽から受ける霊魂の流れを乱し、その霊に苦痛を与えるからだ。  

 

なぜならば霊魂はそれぞれの霊の顔から流れて入り後へ流れていくものだからだといった。  

 

以上のようなスウェーデンボルグの報告と、

 

年恵女の背後に誰か人が立つと怪力ぶりが失なわれてしまった、という“事実”とはピタリと合致していることが判る。

また、大の男をころころ負かしてしまうほどの怪力ぶりについては、人間界と霊界とでは「時空間」の概念が違っているからであり、スウェーデンボルグの報告でも「霊たちは巨岩を転げ落とさせたり、粉々に砕いたりするほどの恐るべき力を備えている」と述べられているのだ。大の男の一人や二人を軽く打ち負かすことなど、実にわけもないことなのである。  

さて、

4番目のポイントは、長南年恵の周辺、特に髪の毛のあたりから、いつも「いい香りがしていた」という“事実”。  

雄吉の「事実証明願」の1項目にもあるように、彼女は2カ月以上も獄中に拘禁されて、入浴や洗髪の機会など、ほとんど与えられなかったものと思われる。ところがその髪は「いつも結いたてのように黒々と艶やか」であり、形容しがたいほどの

「いい香り」がほのかに匂いたっていたという報告があるのだ。  

実は、霊界と「におい」とは深い関連性があるのである。  

 

スウェーデンボルグの説明でも「悪霊たちのはびこる“地獄界”では、堪えられないような悪臭が充満している」というし、反対に、

 

「天使たちの遊ぶ。天界層や神界層では、えも言われぬふくいくたる香りが満ち満ちている」のである。こうした両者の「におい」の相違は、

 

その霊の霊格の反映であるという。つまり、

霊格の高い霊人ほど、いい香りを好むものであるし、自らその周囲はつねにいい香りに包まれている。ところが、霊格の低い悪霊となると、遂に悪臭が彼らのごちそうというわけで、好んでそういう場所を求めたがるということなのだ。  

わが国の古い経典でも「仏(死者)の食べ物はにおいである」と述べたものがあって、仏前に“香”を献じるのはそのためだ、とされているほど、

霊界と「におい」とは密接な関連があるのだ。  

だから、長南年恵の周辺に、いつも芳香が漂っていたという“事実”は、彼女が高い霊格の持ち主であったことの証明材料とも言えると思う。   続いて

 

5つめのポイントは、鶴岡監獄の中でも、年恵の家や参詣中の神社でも、多くの人びとが耳にしたという「妙なる音色」についてである。これは信者たちばかりでなく、獄吏とか群衆整理の警官たちまで聞いている。いずれも、年恵に「神様がお下りになった」状態のときに聞こえてきたという。“証人”の形容によれば、その音色は雅楽のしょう、ひちりきや、笛、鈴の音などのようであったとも言うし、

「どの神様がお下りになったかによって音色が違っていた」とも言われている。  

 

では、霊界と「妙なる音色」との関連性はどうか。   これも、「におい」のところで述べたのとほぼ同様の説明がつくのである。  

 

つまり、「におい」と同様、「音」もまた、その霊の霊格や「霊界で置かれている状態」を如実に示す役割を果している。

要するに、

霊格の高い霊人たちの住む天界層、神界層では、いつもどこからともなく、心を浮きたたせるような「天上の音楽」が流れているものだという。

反対に、地獄界では、悪霊たちの霊格の状態を反映して、不快このうえもない騒音のようなものが、耳障りに響いているというのだ。  

霊界と「音」との関連を語るもっとも身近な例をあげよう。ひとつは「死の知らせ」とか「虫の知らせ」というものである。遠方にいる縁者などが、その死を近親者に伝えるこの現象は、「扉を叩く音がした」とか「風もないのに窓ガラスが鳴った」など、その多くが「音」で通信されている事実はよく知られているところである。  

また、たとえばお通夜などで死者の霊が近親者に寄こす、ある種の「音」通信も、知られている例のひとつだろう。

鈴を振る音にも似た「妙なる音色」を伝えてくる死者は、

自分が幸福な状態で満足のうちに死んだことを示しているといわれる。

ところが、「無念の死」といわれるような死に様の死者は、何か破壊的な衝動に駆られ、近親者にも「耳障りな音」を伝えてくるものだといわれている。  

このように、霊界と「音」とは緊密なつながりのあることが、おわかりと思う。  

 

次に掲げる“事実”は、「いったいどこへ行ってしまうのか、しばしば年恵女の姿が見えなくなった」と弟の雄吉をはじめ、側近者たちが語っている証言。

 

これが6番目のポイントである。今まで自室にこもっていたかと思うと、忽然と姿を消していたり、神社ヘー緒に参詣に赴いた際にも、ふっといなくなったり、ということがよくあったという。   そこで思い出されるのは、

 

エマニュエル・スウェーデンボルグの、やはり「よく姿を消した」といわれる行動である。伝えられるところによれば、彼はしばしば自室にこもって一切の入室を禁じ、2、3日間から長いときには1週間以上も姿を現わさなかったという。

もちろん、その間、食事をした形跡はない。本人の語るところによると、彼はその期間、

「霊界へ行っていた」というのだ。

また、スウェーデンボルグは、ゴッテンバーグというスウェーデン西部の都市の集まりで、奇妙な「姿の消し方」をしている。ちょっとの間姿が見えなくなったと思っていると、戻ってくるなり彼は突然、今ストックホルムで大火事が起こっていると語って一同をびっくりさせる。しかも、まさに目の前で見てきたとしか思われないほど、克明にその様子を語って聞かせたのだ。ある者が首をかしげながら、どうしてそんなことが判るのかと問うと、「今、実際に見てきたからだ」という答えである。当然のように一同の者たちは、彼の話を信じないまま当夜は散会となったが、

 

2日後、ストックホルムからまさに彼が語ったとおりのニュースが飛び込んでくるに及んで、ようやく事実であることが知れたのだ。この事件は「ストックホルムの火事の話」として、当時ヨーロッパ中に広まり、スウェーデンボルグの名を一躍高めたといわれる。しかも、あの大哲学者カントが、わざわざこのことを本にまで著わしているのである。  

 

長南年恵の場合も、姿を消したとき「霊界」へ行っていたか、あるいは今のスウェーデンボルグの話のように、どこかの場所へ行っていたと考えても、決して不思議ではないだろう。  

 

「霊人」にとっては、瞬時にある場所から別の場所へ移動することなど、極めて容易な話であるからだ。いかに遠く離れている場所の往復でも、霊の世界の住人にとっては、少しも障壁とはならないばかりか、すべて一瞬のうちにやってのけることが可能なのだ。というのも、「霊人」は肉体ではなく霊体を移動させるからである。言い換えれば、“念”を飛ばすことによって、即座に目的の場所への到達が可能というわけなのだ。   年恵女が「霊界へ行っていた」ことの裏付けは、姿が見えなくなったばかりでなく、

 

証人だちが語っている「誰か死人が出ると、年恵女に頼んで、その様子を教えてもらった」という報告や、「日清戦争の予言を多くし、ことごとく当った」という事実、それに「失せ物などもピタリと言い当てた」ことによっても明らかだろう。  

 

7番目のポイントは、長南年恵が「自分の死を予告していた」という“事実”である。彼女は明治40年10月29日にこの世を去っているのだが、その2カ月ほど前から周りの人たちにお迎えの近いことを語っていたという。  

 

「自分の死を予告する」ことは、古今の大霊能者と呼ばれる人に、例外なく見受けられると言っていい。

あのノストラダムスにしろ、エマニュエル・スウェーデンボルグにしても、「何年の何月何日に、どういう死因で」ということまで予言し、実際、そのとおり寸分の違いもなくこの世を去っている。彼らのように、霊界からある使命を帯びてこの世に生まれ出て来た“特別な存在”は、その使命が全うされたとき、守護神によって“お迎えの日”が知らされ、予告どおり霊界へ召されていくものらしいのである。  

 

年恵の場合、「2カ月ほど前に自分の死を予告した」という以上に詳しいことは、残念ながら判っていない。年月日や死因まで語ったかどうかは明らかではないが、自分の死の予告は誰にでも可能なことではない。やはり、ある種の“選ばれた存在”にのみできることは確かなのである。  

 

最後の8番目のポイントは、他ならぬ長南年恵の「極楽娘」と呼ばれるような屈託のなさ、性格の良さである。弟の雄吉も「姉はバカに近いほど無欲で、人が欲しいと言えば、羽織でもかんざしでもさっさと与えてしまった」と語っていることや、「母や目上の人間に極めて従順」であったこと、さらには「14、5歳の子供のように無邪気に、大の男たちと腕相撲やら綱引きやらに興じる」といった性格のことである。   これがどうして「霊人」と結びつくかというと、次の理由による。つまり、霊界において好まれる性格、言い換えると“良いポジション”につける性格というのがあるからだ。それは、何よりも“素直”であり、物事にこだわらない“屈託のなさ”であり、自分のことを顧ることなく他人のために尽す“無私の心”である。  

 

「極楽娘」という愛称で周囲の誰からも愛されたに違いないこうした年恵の天衣無縫さは、まさに“霊界向き”といえるだろう。霊界でもかなり良いポジショソヘ行ける者に共通の性格を備えているように思えるのだ。  

 

これまで掲げたいくつかのポイントをもう一度整理して書き出してみよう。まず、長南年恵に見られる顕著な特徴は――  

 

① 大小便という生理現象がなく、絶飲絶食の状態であったこと。  

② 40歳を過ぎても、20歳そこそこくらいの若さにしか見えなかったこと。  

③ 大の男を負かしてしまうほどの大力の持主であったこと。  

④ つねに彼女の周辺から芳香が匂いたっていたこと。  

⑤ 「神様がお下りになった」状態のとき、どこからともなく妙なる音色が流れてきたこと。  

⑥ しばしば年恵女の姿が見えなくなったばかりか、死者の様子を語ったり、未来予知も行    なったこと。  

⑦ その2カ月ほど前に、自分の死を予告したこと。  

⑧ 「極楽娘」という愛称で呼ばれるように、明るく素直で屈託のないよ“童女”のような人柄    であったこと。  

そして、それに対応する「霊人」の特徴は次のとおりである――  

① 霊人は、一切「食物」や「飲物」を必要としない。従って、「排泄作用」もないものである。  

② 霊人は、人間界の常識とは逆に、だんだん若返っていって「20歳」が最高年齢(最長    老)であること。幼くして死んだ者は、だんだん成長していくが、やはり「20歳」で年齢は    止まる。  

③ 霊人は、「山を崩し、岩を砕いてしまう」ほどの恐るべき力を備えているものであること。  

④ 霊人にとって「におい」は、その霊格の反映であること。霊格の高い霊人ほど芳香を好    むものであり、いつも快い香りに包まれている。  

⑤ 霊人にとって「音」もまた、その霊格や霊界における状態を反映していること。霊格の    高いものや幸福な状態にあるものは、妙なる音色に包まれる。  

⑥ 霊人は、念じさえすれば、瞬時に思うままの場所へ移動できるばかりでなく、時空間を越    えて、「過去」や「未来」のことまで、つぶさに知ることができる。  

⑦ 特別の使命を帯びて人間界に現れた霊人は、その使命を全うした時期に、霊界からお    迎えの日を知らされるものであること。  

⑧ 霊界において“良いポジション”を得られる性格は、「素直さ」「屈託のなさ」「無私の心」で    あること。

 

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神の器

 

第12話

 

 

 

21 人間の心があらゆる物事を判別する点まで到達し、心の裡なる最高所に達した時 、始めてそれは心を悉皆(すべて)より引き離していた幕(ヴエール)を貫いて、

 

 

神我 の完全なる悟りの中に入る。

 

 

そしてわたしがあなたたちに、「あなたが今知っているの は何か」と聞けば、あなたたちは、

 

 

「わたしの知っているのは神我のみです、神我こそ は全ての全てです」と答える。

 

                                  

         

              心身の神癒(M・マグドナルド・ベイン)

 

 

 参考、

 

神我=真実の我=イエス自らが、各人に内在する主(神)の意味であることを、くり返しくり返し強調し、宣言しておられる。

 

 

 

私論、

 

エスは、神我を教えるために、十字架にかかり、復活して、この世に神我(永遠の生命)があることを人々に教え、成就した。

 

                                                                                                      蒼氓。

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第十一話 無智なる者は命なき者を崇拝め、賢明なる者は神の中に生きる。 しかし又わたしはあなたたちに告げるが、地上の何人も礼拝してはならない、天にまします御方のみがあなたたちの父であるからである。

 

 

第11話

 

 

25

偶像は人の手によって造られたただの金、銀にすぎない。

 

 

26

口はあるが語ることは絶えてなく、目はあっても視ることはできない。

 

 

27

耳はあっても聞くことはできない。その中には生命の息ひとつない。

 

 

28

無智なる者は命なき者を崇拝め、賢明なる者は神の中に生きる。

 

 

29

たとえ偶像が象微として維持されているにせよ、意識は象微の背後にあるものに気付かねばならない。何も知らずに偶像を拝むのは無益である。

 

父の中に生きること、父は自分の中に生きてい給うことを知ることが本当の崇拝である。

 

 

30

故にわれわれ自体は自分達が何を崇拝しているのかをよく知ってはいるが、一般大衆は自分の崇拝しているものが何なのかが分っていない。

 

故にわたしはあなたたちに云うが、み霊であり実在である神を崇拝せよ、神はみ霊であり、唯一無二の実在であるからである。わたしと父とは一体である。

 

 

31

しかし又わたしはあなたたちに告げるが、地上の何人も礼拝してはならない、天にまします御方のみがあなたたちの父であるからである。

 

 

32

父はあなたたちの中にある生ける生息、あなたたちの中において個別化した神の分霊(キリスト)である。

 

 

33

神我(キリスト)はすべての人類の中にある神の霊である。わたしは神の愛である。この霊を知るためには愛である神を敬慕しなければならない。

 

 

34

ではいかにして愛なるところのものを敬慕するか。それはーーあなたたちの裡なる最高のものに達することによって、あなたたちを創造り給うた方からあなたたちに流れくる愛を与えることによって、あなたたちの魂を通じて流れるこの生命と愛の溢れる河を

自覚することによってーーである。

 

 

35

 

自分自身の魂と胸(ハート)とに流れ入る生命と愛との流れを実際に表現す時、あなたたちは神の愛を実感するのである。

 

悉皆を愛することは神を愛することである。

 

 

 

神はすべてを愛し給う、すべては神の被造物であるからである。

 

だからこそわたしは、あなたたちの隣人を自分自身のように愛せよというのである。

 

 

 

 

       心身の神癒 : 主、再び語り給う                                                

        M.マグドナルド・ベイン著 ; 仲里誠吉訳                                                                                    

             霞ケ関書房, 1972   

 

 

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 参考、

 

 

 

悉皆とは、本来文字が示すとおり「ことごとくすべて」という意味です。

 

 

 

 奇跡としか言いようがない。感動で、肉体が無くなりそうです。

 

                            蒼氓。

 

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心身の神癒 ー主、再び語り給うー 神の遍在、全能、全智なる真理は完全無欠であることを悟るがよい。

第1話 

 

 

28

 

神の遍在、全能、全智なる真理は

完全無欠であること悟るがよい。

 

 

およそあらゆる生きものの中にあって生きているのは(実は)神であり、神のみが生きているのであることを知るがよい。

 

なぜなら神はその全てを創造り給い、それらより離れて生きてましますことは不可能であるからである、それは神が遍在し給うからである。

 

 

 

29 

 

もしも神の創造り給いしものが何らかの点において

 

神から離れているのであれば、神はその本性において無限であることはできない。

 

すべての被造物は、すべての働きを調和させ、神の神性を顕現せしめる愛という基本原理によって創造られたのである。

 

人がこの真理に気付いた時、その時こそ彼の身内にはかの完全なる神性が反映し、やがてそれは人間としての地上天国をもたらすであろう。

 

 

 30

   

 然るに人々は死せる者の蘇りを聞くやこれを嘲笑った。

 

しかし生命体である宇宙にどうして死せるものがありえようか。

 

久遠に生きてい給う神の中にどうして死せるものがありえようか。

 

なる程到る処で変化がおきてはいる、しかしその変化の中には死せるものは何ひとつないのである。

 

悉くの粒子がひとつ形態より他の形態へと変幻する生ける粒子なのである。

 

 

智慧なき者の見るのは死であり、

 

啓明された者の見るのは大生命の働きである。

智慧なき者は一つの状態より他の状態への遷り変りの法則を解しない、その故にこそ人はみずから死と称する迷妄をみずからの心の中に造り出してしまうのである

 

 

 

 

 

 

 

 

 

         心身の神癒 : 主、再び語り給う

             M.マグドナルド・ベイン著 ; 仲里誠吉訳

                  霞ケ関書房, 1972

 

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 備考、

 史上最大の 奇跡の言葉。という以外に言葉がみつからない。

                  

                            蒼氓。

 

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すべてが神がふところの中で行われている、という言い方は正しいでしょうか。

 その牧師には夫人の他にもう一人、学校で宗教教育を担当している女性が同伴していた。

その女性が尋ねる───

 

───私はあなたの霊言集を読み続けております。その中のどこかであなたは、人格神は人間が発明したもの以外には存在しないとおっしゃっています。

〝大霊とは法則です〟

と述べておられるのですが、

 

別のところでは

〝未来永劫にわたって神の愛と愛の神が存在します。

皆さんが愛念を表現するごとに神がみずからを顕現なさるお手伝いをしているのです〟

とも述べておられます。

これらの表現や他のもろもろの言い回しを拝見しておりますと、

私にはあなたは神を人格を具えた存在であるかに表現しておられる印象を受けるのですが、その辺を明確にしていただけないでしょうか。  

 

分かりました。

 

でも、これはとても難しい問題です。

なぜならば、無限なる存在を有限なる言語で定義することは事実上不可能なことだからです。

大霊は人間が考えるような意味での人物的存在ではありません。

人間を大きく拡大したような存在ではありません。

男性でもなく女性でもありません。  

大霊は宇宙最高の力、無限の知性、愛、慈悲、叡智、要するにありとあらゆる

霊的資質の原理の総合的化身です。

が、その概念をお伝えしようとすれば、どうしても人間の言語を使用せざるを得ません。

もしも私が大霊のことを中性名詞で〝それ〟と呼んだら、男性名詞で〝彼〟と呼ぶよりもさらに厄介な問題が生じます。

 物的世界は、他のすべての世界と同じく、絶対不変の摂理によって支配されております。

その摂理は無限の過去から存在していましたし、これからも無窮の未来まで存在し続けます。

予期しなかった事情が生じて改めざるを得なくなることはありません。 これまでの摂理では間に合わない新たな事態が生じるということも絶対にありません。

その作用は完ぺきであり、停止することも、無効になることもありません。

無限の知性によって考案されたものだからです。  

生命の存在するところには必ず摂理が働いております。原因には必ず結果が生じます。タネ蒔きには刈り取りが付随します。その因果関係に干渉して、生じるべき結果を変えてしまうような力をもつ存在はありません。

 

地上世界のどこで何が起きようと、それも摂理のもとに生じています。

 

突発事故も偶然の出来事もありません。大自然の摂理はありとあらゆるものを包摂しております。  

こうした事実は、その背後に崇高なる知性が存在してそれが摂理を生み出し、万物の全側面と全活動を維持・管理していることの証ではないでしょうか。

 

同時に又、その全摂理を通じて愛が支配し、従って完全なる公正が行きわたっているに違いないことを暗示してはいないでしょうか。 悪いことをすればそれ相当の罰が与えられるように、善いことをすればそれ相当の報いがもたらされます。

 死の床での牧師による最後の儀式も、自然の摂理の働きを変えることはできません。いくら誠心誠意の祈りであっても、それだけで摂理が変えられるものではありません。いかなる教義を忠実に受け入れても、摂理を変えることはできません。

なぜならば摂理は完全な公正が行きわたるように働かねばならないからです。

 

あなたの行為が招いた結果を代わりに背負ってあげられる人はいません。

 

あなたのすること考えることの一つ一つにあなた自身が責任を取らねばなりません。

 

聖人と罪人とが同じ霊格を具えるようなことはあり得ません。

 

霊格をごまかしたり偽ったりすることはできません。

 

そこに神の意志があり、神とはそういうものなのです。

 

 あなたは〝人間性〟を問題にされましたが、神はあらゆる人間に内在しているという意味では人間性があると言えます。

 

が、

 

神は摂理であるという意味においては非人間的存在です。

 

ましてや、

 

自分を信じる者は可愛がり、信じない者には意地悪くするような、そんな恨み深い神さまではありません。  

 

摂理によって原因と結果とがきちんと定められております。

 

神はあなたの中に存在するのです。

 

受胎の瞬間から神性の種子が植え付けられているのです。それに芽を出させ、花を開かせ、豊かな実りをもたらすためのチャンスは、日常生活の中でいくらでも用意されております。

 

すべてが神がふところの中で行われている、という言い方は正しいでしょうか。

 

 

結構です。

 

 

神はあらゆる場所に存在します。神のいない場所というものは存在しません。

 

 

 

 

                     四章 既成宗教のどこが間違っているか  ───キリスト教を中心に

 

                        シルバーバーチの霊訓(十一) 

 

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いずれにせよ、その霊的実在を信じた時、あなたに霊的な備えが出来たことになります。すなわち一種の悟りを開きます。

 

 

大勢の人が真の実在であり全ての根源であるところの霊性に気づかぬまま生きております。

 

こうして生きているのは霊的存在だからこそであること、それが肉体を道具として生きているのだということが理解できないでいるのです。

 

 人間には霊がある、あるいは魂があると信じている人でも、

実在は肉体があって霊はその付属物であるかのように理解している人がいます。

 

本当は霊が主体であり肉体が従属物なのです。

つまり真のあなたは霊なのです。

 

生命そのものであり、神性を有し、永遠なる存在なのです。

肉体は霊がその機能を行使できるように出来あがっております。

その形体としての存在はほんの一時的なものです。

用事がすめば崩壊してしまいます。が、その誕生の時に宿った霊、

これが大事なのです。

 

その辺の理解ができた時こそあなたの内部の神性が目を覚ましたことになります。

 

肉体的束縛を突き破ったのです。魂の芽が出はじめたのです。

 

ようやく暗闇の世界から光明の世界へと出て来たのです。

あとは、あなたの手入れ次第で美しさと豊かさを増していくことになります。

 

 

                                        シルバーバーチの霊訓(一)

          第一章  あなたとは何か

 

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霊性は書物からは得られません。先生が授(さず)けるものでもありません。

自分自身の生活の中で、実際の行為によって体得しなければなりません。それは、個性の内部における神性の発芽現象なのです。

                      (シルバーバーチ 今日のことば P50)

 

 

 

 

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参考サイト

それ仏法遥ぶっぽうはるかに非あらず 心中しんちゅうにして即ち近し (『般若心経秘鍵はんにゃしんぎょうひけん』) ざっくりとお伝えしますと、「仏さまはそんなに遠くにはいないよ」「思っているよりもずっと近くにいるんだよ」といった意味になります。なんだかびっくりしてしまうようなことばですよね。私もはじめて聞いたときにはかなり驚きました。

 

 

最初は半信半疑だったけれど……

般家庭で育ち、結婚を機に仏門に入った私は、仏教のことをほとんどなにも知らないまま、本山での修行生活をはじめました。それまでは、仏さまというのは、自分とはまったくかけはなれたところにいらっしゃる、触れることもかなわない存在なんだと思い込んでいたんです。

 

でも、真言宗では、この世のすべては大日如来(※1)の化身である、と教えるんですね。つまり、いまここにある自分をも含めたすべてが、そのままの姿ですでに仏さまなんだ、ということです。

私も、それを最初から素直に納得できたわけではありませんでした。だけど、修行を終えて自分のお寺に戻ってきて、日々、慣れないながらも目の前のことに懸命に取り組んでいるうちに、ああ、こういうことなのか……と、しみじみと実感する瞬間が増えてきたんです。

 

※1 大日如来 宇宙の根本のエネルギーをあらわした如来一切の現象は大日如来が姿を変えてあらわれたものとされる。

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参考。

 

大霊=大日如来=宇宙の根本エネルギー。

 

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