真理との邂逅 高級霊のメッセージ   

 「わたしは生命である」神の生命がわたしの中で生き給うが故にわたしは生きている。生命は神であり神は生命である。 心身の神癒 第6話6 *****あらゆることのうち最も重大なのは、神のみが生きてい給うのであり、その神が今の今御自身を顕現しつつあるのを認めることである。私の中に常に留まっておられるのは父であり、父が父御自身の業をしていらっしゃるのである。

弁栄上人は常不軽菩薩である。 感動で涙が。

弁栄上人は常不軽菩薩である

 すべての衆生に宿る仏性を信じ、その尊さを人々に説き続けることに生涯を捧げた常不軽菩薩。

その姿に感銘を受けた人が過去にどれだけ存在したかは分かりませんが、その一人に詩人・作家の宮沢賢治がいます。彼の死後、有名な「雨ニモマケズ」の詩が書かれた黒表紙の手帳が発見されました。「雨ニモマケズ手帳」と呼ばれるその手帳の中には、この詩の後に常不軽菩薩についても記されていました。そこから「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ」という言葉で終わるこの詩の「デクノボー」のモデルは、常不軽菩薩であるという解釈が生まれました。

 

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作者が亡くなってしまった今、その真偽は分かりませんが、宮沢賢治がこの菩薩に深い共感を抱いていたことは間違いないようです。

そして弁栄上人もまた、この菩薩に深い共感を覚えていました。菩薩に言及した上人の言葉の端々からそれを感じることができます。例えば、次の上人の言葉を見てみましょう。

 霊に活ける仏徒は超勝独妙の霊を自尊すれども、毫も我慢の色なし。また他の一切の衆生を尊敬して礼拝す。釈迦の前世、常不軽菩薩の時に、貴賤貧富の隔なく、すべてを礼し、汝等当来皆当作仏と号して礼拝す。弊悪の輩、還て瓦礫を以て投石する時は逃げ去て、遠く其影に向って尚も至心に敬礼して止まず。何故に悪性弊垢の輩にも尚礼拝するかの所以は、是等現前は如何に弊悪なるも、内心に潜める仏性は、当来に於て作仏すべき霊性を信ずるが故に、現在の悪人たるを認めずして、其仏性に向て礼拝すと。
 (霊性に活かされている仏教徒は、極めて勝れた自らの霊性を自尊しているけれども、少しも傲慢になる気色がない。また、他の一切の衆生を尊敬して礼拝する。釈迦は、前世の常不軽菩薩の時に、富める者も貧しい者も区別することなく、すべての者を敬い、「あなたがたは、やがて皆、まさに仏となるべき者である」と語って礼拝した。しかし悪い連中は、かえって瓦礫でこの菩薩に投石したので、その時は逃げ去って、遠くから彼らに向かってなおも心から敬礼し続けた。なぜ悪に染まった連中にもなお礼拝したのかというと、彼らが現在どれほど悪かったとしても、彼らの心の内には仏性が潜んでおり、やがて仏となるべき者であるという、そうした霊性を信じるが故に、この菩薩は現在の悪人としての彼らを認めず、彼らの仏性に向けて礼拝していたのである。)

 ここには、霊によって活かされた仏教徒は自尊心があっても少しも傲慢になることがないとあり、また常不軽菩薩はどんな悪人の内にも宿る仏性を信じるが故に、相手が悪人であることを認めず、やがて仏になるべき者として、その仏性に向かって礼拝していた、とあります。仏性は、光明主義では「霊性」と言い換えられます。この引用の中にも霊性という言葉が見えますが、弁栄上人にとって、仏性への確信はそのまま霊性への確信でした。よって、上人によれば、仏性=霊性の存在をいささかの疑いもなく信じていたことが、常不軽菩薩の行動の源泉であった、ということになります。彼は「私はあなたを軽蔑しません。あなたはやがて仏になられるでしょう」とひたすら人々に語り続けることで、自らの内に潜む仏性に目覚めるよう、人々を促していたのです。その生き様は、生涯をかけて如来から与えられた霊性について語り続けた弁栄上人と重なります。常不軽菩薩と同様、弁栄上人の生き方も全くぶれることがありませんでした。

 

それは、すべての衆生に霊性が宿り、すべての衆生は如来となるべき存在である、という確信が上人の中にあったからです。

 

 

 

 

 

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