真理との邂逅 高級霊のメッセージ   

  「わたしは生命である」神の生命がわたしの中で生き給うが故にわたしは生きている。生命は神であり神は生命である。 心身の神癒 第6話6 *****あらゆることのうち最も重大なのは、神のみが生きてい給うのであり、その神が今の今御自身を顕現しつつあるのを認めることである。私の中に常に留まっておられるのは父であり、父が父御自身の業をしていらっしゃるのである。

私たちは自らの内にある秘密の宝=仏性を完全に理解し、「如来とは自分であり、自分とは如来である」という、自己と如来の一体性を自覚するに至る、とあります。一切の衆生に潜む仏性=霊性を開花させ、人々に自らが如来の子であり、さらには自らが如来自身でさえあることを自覚させる、このことはまさに弁栄上人の生涯をかけた使命でもありました。よってこれらの言葉から、上人が法華経の目的に深く共感していたことが伺えます。また、上人がこの経典を哲学的と呼んだ根拠は、この目的への思想的共感の他に、如来寿量品を中心に描かれる「久遠仏」

 

弁栄上人の法華経観

 法話の中で頻繁に語っていることから、弁栄上人が法華経に造詣が深かったこと、また強い関心を抱いていたことは間違いありませんが、それでは上人は法華経をどのような経典と見ていたのでしょうか。それを伺うことができる上人の言葉があります。上人は『宗祖の皮髄』の中で、華厳経、法華経、無量寿経という大乗仏教を代表する経典について次のように語っています。

 大乗仏教の釈尊は大哲人たるとともに大宗教家なりしなり。『華厳』および『法華経』等の教主としての釈尊は、実際哲学の方面より真理を悟る道を示され、『無量寿経』は宗教の教主として宗教の模範をたれたまえり。

 ここで上人は、釈尊を哲学者と宗教家という二つの側面に分け、華厳経と法華経については釈尊が哲学者として「真理を悟る道」を説いたものとし、浄土教の根本聖典である無量寿経については釈尊が宗教家として「宗教の模範」を説いたものと述べています。これは弁栄上人の経典観を示したものとして、とても興味深く思われます。法華経は譬え話が多く、物語性が強いぶん、華厳経のような経典と比べると哲学的な要素は乏しいように思われますが、上人はそのように見ていなかったようです。では、なぜ上人は法華経を哲学的な経典と見たのでしょうか。その理由の一つは、この経典が説かれた意図あるいは目的に、上人が思想的に共感したからだと思います。上人の言葉を見てみましょう。

 人は人の子たると共に如来の御子であることの自覚に入らしめんが為めに、仏は世に教を垂れ給うた。『法華経』に一切衆生は悉く我子と仰せられ、また方便品に、諸仏如来は衆生をして仏の知見を開示して、仏の正道に悟入せしめんが為めに出世し給うと。〔その〕意は、人々本具の仏性を開きて仏の御子の徳を示さんが為にと。

 ここで上人は方便品の言葉を引いて、法華経が説かれた意図を、私たち衆生に仏の智慧を開示し、仏性を開花させ、すべての人が仏=如来の子であると自覚させるためである、と述べています。また上人は、次のようにも言います。

 『法華経』に、諸仏如来は一大事因縁を以ての故に世に出現したまふ。衆生をして仏知見を開かしめん為の故に世に出現したまふ。仏知見を開示悟入、仏の正道に悟入せしめん為に世に出現したまふ。(中略)衆生は秘密の宝蔵を遺すことなく智見し、

 

悟入して初めて、如来は我にして我は如来であることを自覚することを得。

 

 これによると、法華経における仏=如来は、衆生に宿る仏の智慧を開くために現れそのおかげで

 

私たちは自らの内にある秘密の宝=仏性を完全に理解し、

 

「如来とは自分であり、自分とは如来である」という、自己と如来の一体性を自覚するに至る、とあります。

 

 

一切の衆生に潜む仏性=霊性を開花させ、人々に自らが如来の子であり、さらには自らが如来自身でさえあることを自覚させる、このことはまさに弁栄上人の生涯をかけた使命でもありました。

 

 

よってこれらの言葉から、上人が法華経の目的に深く共感していたことが伺えます。また、上人がこの経典を哲学的と呼んだ根拠は、この目的への思想的共感の他に、如来寿量品を中心に描かれる「久遠仏」の思想にあるような気がしています。

 

法華経における釈尊は、この世界に生まれ、八十年の生涯を過ごして亡くなった一人の人間ではなく、それは仮の姿で、その本性は永遠の仏、すなわち久遠仏であるとされています。

 

しかもその仏は概念的・静止的な存在ではなく、

今この瞬間にも生きて活動し、絶えず私たちに働きかける存在です。その姿はあたかも弁栄上人が語る阿弥陀如来のようであり、

 

よって法華経と光明主義は思想的に相通じるものがあるように思われます。

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                               光明主義

 

 

 

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備考、

 

 驚くべきことに、心身の神癒、とも全く共鳴しているのです。

 

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                            探求者 蒼氓          

                         

                               

 

 


(注1)常不軽菩薩の「常不軽」にあたるサンスクリット語は‘sadāparibhūta’であり、文法的には過去受動分詞と言い、直訳すれば「常に軽蔑された(sadā-paribhūta)」あるいは「常に軽蔑されない(sadā-aparibhūta)」となり、岩波文庫では「常に軽蔑された男」と訳されている。しかし法華経を漢訳した鳩摩羅什はこれをあえて「常不軽」、すなわち「常に軽んじない」と能動的に訳している。それは文法よりも、この菩薩の行動を重視した結果と考えられる。よって、ここでは鳩摩羅什の訳に従い、受動ではなく、能動的に「常に軽蔑しない」と訳した。
(注2)阿羅漢とは、サンスクリット語の‘arhan’(「尊敬・供養に値する者」の意)の音写で、漢訳では「応供」とされる。もとは仏の別名である「仏の十号」の一つであったが、後には仏と区別され、修行を完成した仏弟子を意味するようになった。
(注3)『法華経(下)』坂本幸男・岩本裕訳注、岩波文庫、1967年、pp.133-135。一部、表現を改めて引用。
(注4)同pp.135-137。
(注5)『不断光 附仏法物語』より「仏法物語」、ミオヤのひかり社、1928年、p.11。
(注6)マタイによる福音書第5章44節。
(注7)『ミオヤの光 縮刷版二巻』ミオヤの光社、1989年、p.26。
(注8)『ミオヤの光 縮刷版三巻』ミオヤの光社、1989年、p.189。
(注9)『宗祖の皮髄』光明修養会、1990年、p.123。
(注10)法華経の方便品には、次のようにある。「如来がこの世に出現する目的となった、如来の唯一つの偉大な目的、唯一つの偉大な仕事とは、一体何であろうか。それは如来の智慧を発揮して人々を鼓舞するためであって、そのために如来はこの世に出現するのである。如来の智慧の発揮を人々に示すためであり、またそれを人々に理解させ、分からせるためであり、また如来が智慧を発揮するに至るまでの道程を人々に理解させるために、世尊はこの世に出現するのだ。」(『法華経(上)』坂本幸男・岩本裕訳注、岩波文庫、1962年、pp.89-91。)
(注11)『無礙光』ミオヤのひかり社、1956年、p.237。
(注12)『ミオヤの光 縮刷版三巻』p.278。

 

 

 

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                                            ただ、驚くばかり、驚愕するばかり。

 

 

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