真理との邂逅 高級霊のメッセージ   

 「わたしは生命である」神の生命がわたしの中で生き給うが故にわたしは生きている。生命は神であり神は生命である。 心身の神癒 第6話6 *****あらゆることのうち最も重大なのは、神のみが生きてい給うのであり、その神が今の今御自身を顕現しつつあるのを認めることである。私の中に常に留まっておられるのは父であり、父が父御自身の業をしていらっしゃるのである。この事も又あなたたちは悟らなければならない。心身の神癒 第9話3

弁栄上人

こんなお上人様がいらしたとは何年か前まで知らなかったのですが
化学、生理学、生物学、哲学等を吸収し
仏教、儒教キリスト教の説を自由に駆使して論ぜられるため
浄土宗で異端とみられ
こらしめてやろうと浄土宗の僧侶たちが
総本山知恩院で上人の講演会をひらいたのですが
かえってその講演に感激する者たちが出たという興味深い方です。

 ……………………

山崎弁栄<べんねい>上人(1859~1920)は
数学者の岡潔博士や詩人坂村真民さんが
「本物中の本物」と賞賛される山本空外上人が帰依された方である。

日本人で最初にインド各地の仏蹟各地を
巡拝したのは弁栄上人である。
ブッダガヤだけはその10年前に北畠道龍上人が訪れている。

明治27、8年インドに旅して、釈尊の遺跡を巡歴し
日本に帰ってから
阿弥陀経図絵を日本中を巡り歩いて施すこと25万部という。

新しい寺を建立するとき、遠く行脚し、一人一厘を乞うたが
貧窮者に遇えば、喜捨で得た金や米をすべて与え
また一厘から始められた。
道を歩くにも、蟻はもちろん、若草まで踏まないようにした。

お寺に泊まるときも、わざわざ下男の部屋に泊り
夜寒の町に貧者を訪れては
当日供養を受けた下着を脱いで与えたという。

ある時随行の人、上人の金をよくごまかしていた。
上人はご存知でありながら一言もいわず、知らぬ顔をしておられた。
上人一族中のある女性が
「このごろ随行の某氏に世上とかくの風説がありますが」
と申しあげると上人
「ハイハイその方はほんとうになにくれと
よく気をつけてくれますので、私も喜んでおります」

上人は12歳の時「空中に三尊仏の姿を拝み見る」
という神秘体験をしているが、そのためか
筑波山にこもって2ヶ月、一日十万遍の念仏をとなえる修行を
24歳の時におこなっている。
その後も生涯念仏の中に生きられた。
そのせいか不思議なエピソードもある。

ある信者が、上人に分厚い自然科学全書を差し上げた。
上人は、その本を左の手で持って
その本の腹のところを右の親指を当てて
ピィーとページを弾かれた。
差し上げた人が「何をなさったのですか」と尋ねると
「ハイ、これで分りました」と上人は答えられた。
その人は上人のお許しを得て
2、3箇所聞くと、上人はスラスラと答えられた。

また、ある信者が柏崎で
修業がうまくゆかないため自殺をはかった。
上人はこの時高崎に滞在していた。
上人は高崎において談笑しながら
柏崎で寝ていた信者の枕もとにたって
「仏憶いの光明を、胸に仏を種とせよ」と7回繰り返し言って
その信者を救ったという。

ある6畳の部屋で、上人があちらに行きこちらに行きしていた。
「お上人、そのようなことで運動になりますか」と訊ねると
「これでも大宇宙を逍遥していますので」と笑って、言われた。

 


 「家を建てても実際に必要な部分は室の中の空間です。
  この空間は、大工、左官が造るのではない。
  本来の空です。
  この空は火にも焼けません。
  大工左官が造ったものといえば
  同一空間を内と外に隔てただけのもので
  この隔ては火に焼けます。
  造ったものは滅します。
  住むべき家は木竹ではなくて空間
  真実の家は本来「空」です。
  心霊の戸を開けば、宇宙と一体となり
  われは宇宙全体のわれとなるのです」


千島学説研究会代表、忰山(かせやま)紀一さん(作家)著の
『弁栄上人伝聞記』の最初の1ページ、3行目には
次のような弁栄上人の歌が活字で紹介されています。

 月を見て

 月に心のすむときは

 光のほかに

 われなかりけり

        弁栄

この歌は、忰山さんの家(寺)の短冊に書かれていたもので
これを目にした高野山金剛峰寺管長・亀山栄慶大僧正は
顔に驚愕の色を表し、わざわざ立ち上がって壁ぎわに行き
短冊に眼をつけるばかりにして一字一字を改めて確かめ
まだ若かった忰山さんに、その由来を訊ねたそうです。

そして、知っている限りの話をし終えた忰山さんへの
亀山栄慶大僧正の反応が、次のように記述されています。

「そう…」
管長は茶碗を両手で抱きしめて
しばらく器のなかに眼を落としていたが
「これは、悟りを開かれたお人の御歌です」と
ぽつりと言って、茶を一気に呑み干した。

 ……………………

上人は自説の顕正のみあって
決して他説を破邪することがなかった。
他の祖師たちのような迫害を見なかったのは
こういう理由からであろう。
すべてが不完全から完全に向かう姿と見えたのである。

何をおたずねしても
「それがよい」(イエス
「それでよい」(ノー)
と二通りにしかお答えにならなかったということである。

大正9年12月4日、62歳で生涯を閉じられた。
最後に残されたお言葉は
如来はいつもましますけれども衆生は知らない。
それを知らせにきたのが弁栄である。」

 

弁栄庵法城寺 Web山崎弁栄記念館 掲示板