机上の仏教のみではなく、実際に歩む仏道を邁進していた弁栄上人は「ただ理窟ばかりこねまわしていたのではだめだ。
農業でも理窟だけでは一粒の米も獲ることはできない。自己の人格に結ぶ果も、念仏三昧の実行の中に育まれていくものだ」との思いが高まり、明治15(1882)年、筑波山に2ヶ月籠もり、昼は洞窟の中で念仏し、夜は巌の上で礼拝の日々を過ごされました。
猿やヘビ、ムカデなどが親しみ近づくほど、自然の中に融け入り、やがて安らかで静寂なる心境、仏さまや浄土の様子が現前の事実となって現れる三昧発得という深い深い境地に達せられました。
その時の円満な心境を、
弥陀身心遍法界(みだしんじんへんほっかい)
衆生念仏仏還念(しゅじょうねんぶつぶつげんねん)
一心専念能所亡(いっしんせんねんのうしょもう)
果満覚王独了々(かまんかくおうどくりょうりょう) と後に吐露されました。
現代語訳 阿弥陀仏の身と心は、宇宙すべてを身とし心とし、〔いかなるところであっても現れて下さいます。〕
私達が南無阿弥陀仏と念ずれば、阿弥陀仏もまた、私達を〔大慈悲の心をもって〕念じて下さっているのです。
〔こんな愚かな私達を、いつでもどこでも仏は念じて下さっているのですから、私達も、ただ〕一心に専ら〔南無阿弥陀仏と仏を〕念ずるのです。そうすると〔深い三昧へと入っていき〕、
仏と私という対立がなくなっていき、最終的にただ阿弥陀仏が独り〔尊く在すことを〕はっきりと覚るのです。
**********************************************************************************************
備考
心を一点に集中させた深い静寂の状態(禅定)において正しい智慧が生じ仏などの勝れた境地を感見すること。