真理との邂逅 高級霊のメッセージ   

 「わたしは生命である」神の生命がわたしの中で生き給うが故にわたしは生きている。生命は神であり神は生命である。 心身の神癒 第6話6 *****あらゆることのうち最も重大なのは、神のみが生きてい給うのであり、その神が今の今御自身を顕現しつつあるのを認めることである。私の中に常に留まっておられるのは父であり、父が父御自身の業をしていらっしゃるのである。

常不軽菩薩

 

常不軽菩薩という生き方

 法華経の常不軽菩薩品には、ちょっと風変わりな、それでいてとても魅力的な一人の菩薩が登場します。その名は常不軽菩薩。「常に軽蔑しない」という不思議な名前を持った菩薩です。これは本名ではなく、誰からともなく人々が彼をそう呼ぶようになったのです。なぜかと言うと、この菩薩は人と出会うたび、相手がどんな人であろうと構うことなく、常に近づいて行っては「私はあなたを軽蔑しません」と声をかけていたからです。その様子は、法華経の語り手である釈尊によって次のように語られています。

 この求法者〔=常不軽菩薩〕は、僧であれ尼僧であれ、男の信者であれ女の信者であれ、会う人ごとに近づいて、このように言うのであった。
 「紳士諸君よ、私はあなたがたを軽蔑しません。あなたがたは軽蔑されていない。それは何故であるか。あなたがたは皆、求法者の修行をしてください。そうなさるならば、あなたがたは完全な悟りに到達した阿羅漢の如来になられるでしょう」と。(中略)この求法者は僧でありながらも教えを説くことなく、経文をとなえることもなく、会う人ごとに、たとえその人が遠くにいても、彼は誰にでも近づいて、このように声をかけ、相手が誰であれ、このように言うのであった。
 「淑女たちよ、私はあなたがたを軽蔑しません。あなたがたは軽蔑されていない。それは何故であるか。あなたがたは皆、求法者の修行をしてください。そうなさるならば、あなたがたは完全な悟りに到達した阿羅漢の如来になられるでしょう」と。

 

 このように、「常不軽」と呼ばれる男は菩薩の身でありながら、修行らしい修行もせず、お経を唱えることもしませんでしたが、その代わりに、出会うすべての人を見下すことなく、常に敬意を持って彼らに接していました。しかし会う人ごとに近づいて行っては「私はあなたを軽蔑しません」と声をかけるというのですから、声をかけられた人たちはきっと驚いたに違いありません。普通に考えれば、この菩薩は変人以外の何者でもないでしょう。よって、声をかけられた人たちも、彼に対して良い印象を持たなかったようです。この菩薩が人々からどんな扱いを受けたのか、それに対して彼はどんな態度で答えたのか、そのことについては次のように述べられています。

 彼に声をかけられた者は皆怒って、彼に悪意を持っただけでなく、不快の意を表して罵り、悪口を言った。(中略)しかし、彼は誰に対しても怒らず、また悪意も持たなかった。彼からこのように声をかけられた人々は、彼に土塊や棒を投げつけたが、彼は遠くから彼らに大声を挙げて、「私は、あなたがたを軽蔑しない。」と声をかけた。

 人々から非難され、迫害されてもめげることなく、ひたすら「私はあなたを軽蔑しません」と人々に声をかけ続けた常不軽菩薩。彼は一体何者でしょうか。

 

すべての人に宿る仏性への敬意

 その不可解な行動から、奇妙でありながらも不思議な魅力を放つ常不軽菩薩に、山崎弁栄上人も心惹かれたようで、法話の中でたびたびこの菩薩に言及しています。例えば、上人は次のように語っています。

 仏子の理想と志願は高く深くすべし、されどまた常不軽菩薩の徳行を倣いて、衆生を悉く中心より敬うて、謙遜の徳を養うべきである。

 仏教徒であるならば、崇高で深遠な理想と志を持つべきであるが、一方で人を見下すことなく、常不軽菩薩を見倣って、すべての衆生を敬う謙虚さも養うべきである、と上人は言います。

                                                                                                                  

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確かにこの菩薩の人々に対する敬意は徹底しており、自分を迫害する者に対してさえ、その謙虚な態度は全く揺らぐことがありません。その行動は「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」というイエス・キリストの言葉をそのまま実践したものであり、よって彼の生き方はキリスト教徒にとっても理想的なものと言えます。
 それでは常不軽菩薩の生き方は、人々から非難され、迫害されても、なぜ全くぶれることがないのでしょうか。人々から否定されても揺らぐことのない、彼の行動を支えているものとは一体何でしょうか。

 

弁栄上人の言葉を見てみましょう。

 法華〔経〕の常不軽〔菩薩〕品に、いかに現在悪人とても、其に具せる仏性は頓に仏と成り得べき故に、常来の仏として礼拝せりと。然らば一切の生物は、当成の仏として皆尊い

 少し言葉は難しいですが、ここに語られているのは、すべての衆生が有する「仏性」への確信と敬意です。たとえ現在どんな悪人であろうとも、その者の中には仏性が宿っており、それ故、その悪人も常に仏になれる可能性を秘めており、よってすべての衆生は仏になるべき存在として尊く、礼拝されるべきである、と上人は言います。

 

常不軽菩薩には、すべての衆生に潜む仏性への揺るぎない確信と一点の曇りもない敬意がありました。自分が出会うすべての人は、たとえどれほど悪人に見えようとも、その内に秘めた仏性によってやがて仏となるべき尊い存在である。こうした仏性への確信と敬意が常不軽菩薩の行動を支えていたのです。

 

 それでは生涯をかけて人々を敬い続けたこの菩薩は、最後にどうなったのでしょうか。

 

法華経には、そのことについても記されています。それによると、彼はいよいよ死期が迫った時、天から流れて来る法華経の教えを聞き、それを瞬時に理解し、その結果、彼の六根は清浄となり、遥かな寿命を獲得し、法華経の教えを広く人々に説くようになった、とあります。するとそれまで彼を軽蔑していた人々も、彼の話を聞くために集まり、彼の随行者となりました。そしてこの菩薩は彼らすべてを鼓舞し、

この上なく完全な悟りに到達させたと言います。衆生に潜む仏性を信じ、それを敬い続けた菩薩は、ついに人々の仏性を開花させ、彼らを完全な悟りへと導く者となったのです。さらにこの章の最後に、語り手である釈尊の口から、常不軽と呼ばれた菩薩が、実は釈尊自身の前世の姿であったということが明らかにされます。釈尊は、常不軽菩薩であった過去世において法華経の教えを学んでおいたおかげで、今生において速やかにこの上なく完全な悟りに到達できたと語ります。

 

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