真理との邂逅 高級霊のメッセージ   

  「わたしは生命である」神の生命がわたしの中で生き給うが故にわたしは生きている。生命は神であり神は生命である。 心身の神癒 第6話6 *****あらゆることのうち最も重大なのは、神のみが生きてい給うのであり、その神が今の今御自身を顕現しつつあるのを認めることである。私の中に常に留まっておられるのは父であり、父が父御自身の業をしていらっしゃるのである。

次に私は「当然の報いと慈悲との関係がよく分かりません」と尋ねた。

シルバーバーチ「報いは報いであり慈悲は慈悲です。

 地上で報われない時はこちらの世界(死後の世界)で報われます。

 

神をごまかすことはできません。なぜなら永遠の法則が全ての出来事をチェックしているからです。

                 

               

 

 

その働きは完璧です。

 

 

宇宙を創造したのは愛です。無限なる神の愛です。無限なる愛がある以上、そこに慈悲が無いはずはないでしょう。

 

なぜなら慈悲心、思いやり、寛容心、公正、慈善、愛、こうしたものは全て神の属性だからです。

 

苦難は無くてはならぬものなのです。

 

いったい霊性の向上はどうすれば得られるのでしょう。

 

安逸をむさぼっていて得られるでしょうか。

 

楽でないから価値があるのです。もし楽に得られるのであったら価値はありません。

 

身についてしまえば楽に思えるでしょう。身につくまでは楽ではなかったのです。」                                      

                                                                    siler  birch

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 備考、いったい霊性の向上はどうすれば得られるのでしょう?

   明るく楽しく過ごして、何かを問うことがあるのでしょうか。?       

   幽界の上のほうにサマーランドというところがあります。

    そこは、全てがかなう所のようです、でも最後は飽きてしまうようです。

   そして、無限なる神のように、魂の向上を求めるようになるようです。 

                                  蒼氓。

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大切な知識、偉大な悟りというものは悲しみと苦しみという試練を通してはじめて得られるものだということです。

 

人生はこの世だけでなく、あなたがたがあの世と呼んでおられる世界においても、一側面のみ、一色だけでは成り立たないということです。

 

光と影の両方が無ければなりません。光の存在を知るのは闇があるからです暗闇がなければ光はありません。

 

光ばかりでは光ではなくなり、闇ばかりでは闇ではなくなります。

 

同じように、困難と悲しみを通してはじめて魂は自我を見出していくのです。

 

もちろんそれは容易なことではありません。とても辛いことです。

 

でもそれが霊としても永遠の身支度をすることになるのです。

 

なぜならば、地上生活のそもそもの目的が地上をさったあとに待ち受ける次の段階の生活に備えて、それに必要な霊的成長と才能をみにつけることにあるからです。」

 

                                                          siler  birch

 

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参考、

 

「 私を軽蔑し、私を酷使した方々でさえも、いまになって思えば、私という人間をつくりあげるために力を貸してくださった方々だとそう感じているのです」

「人生に絶望なし如何なる人生にも決して絶望はない」

                            

                    中村久子言葉             

 

  

          

 

 

                

    「どんな所にも、生かされて、行く道はございます。」

 

 「逆境こそは本当に私の⁂恩寵(おんちょう)

                                                 だったのでございます。」

 

 

                   中村久子

 

                   恩寵(神の恵み)

 

   

 

「両手両足がなくても生きていける」

達磨大師に始まる禅宗の六祖である慧能(エノウ)は、元は木こりで薪などを売って生活していた男で、文字の読み書きもできませんでした。
(学問にも秀でた立派な兄弟子達が多くいましたから、無学な男が祖師になったということで、妬みや怒りもすさまじく、命も狙われましたが・・・)
エスキリストも確か元は大工さんではなかったかと思います。
一般的な学問という教養がなくても、悟ることは十分できるということであろうと思います。
 
我が子が4歳で自分の名前が書けるようになったことを大喜びする父母もあれば、4歳なのに自分の名前しか書けないと嘆く父母もあります。
名声高く豪邸に住んでいても、夫が浮気をした、子供が非行に走った等々、あえぎ苦しんでいる人も多くいます。
当店にも自分達家族の不幸を嘆き、先祖供養で何とか救われたいという方々から相談を受けることがあります。
たまたま生活が好転すると、おかげさまでとお礼を言われます。
そして何年かたち不幸が続くと先祖供養の仕方が間違っているのではないかとの相談です。
先祖供養は悪いことではないでしょうが、先祖供養したから必ず幸せが訪れものではなく、
人生いいこともあれば悪いこともあるし、良いことが続くこともあれば悪いことが続くこともあります。
そんなときに、どのような心がけで生きていくかということであろうかと思います。
苦しみと思えるような出来事も、実は喜びに変わる出来事でもあるのです。
 
 
なかなか苦しみ悩みから抜け出せないという人には、優秀で過去に恵まれた生活を経験した人が多いのではないでしょうか。
もともと貧乏で頭もよくなく出世など考えたこともなく、欲もあまりない人ならば、人生それほど苦しんだりはしないように思います。
そして神や仏をどこかで信じている人には大らかさがあります。
(ただし、私は人に信仰することを押し付けるような人は間違っていると思うし、ある意味嫌いです)
 
幼い時に、両手両足を失いながらも口で裁縫をすることもできた中村久子という女性がいました。
見世物小屋で長く働き子供も立派に育てた女性です。
来日した盲目で聾唖であったヘレンケラーが中村久子に会って「私より不幸な人、私より偉大な人」と称賛しています。
この中村久子の講演会での言葉に、なるほどという言葉があります。
 
「人の命とはつくづく不思議なもの。確かなことは自分で生きているのではない。生かされているのだと言うことです。どんなところにも必ず生かされていく道がある。すなわち人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はないのだ。」
 
中村久子は42才の時に歎異抄に出会ったらしい。
やはり彼女の人生を輝くものに変えてくれたのは、仏教の教えであるようである。
 
中村久子さんとおつきあいがあったのは、Hさんだっただろうか。
紀野先生の著書の中で、彼女が手足を失くし家庭的にもめぐまれない中、強く生き続けたことだけはかすかに覚えていた。
中村久子という名前も、すっかり忘れて、紀野先生のどの本のどのあたりに書かれていたお話しだったであろうかと思いながら、みなさんに紹介するには、あまりにもいいかげんすぎると思っていたが、ふと浮かんだ「中村久子」という名前でインターネットで検索すると、しっかりと、中村久子という女性がウキペデイアに掲載されていた。
 
中村久子さんもヘレンケラーも、美しい女性でもある。