ふつうは神に祈願する場合、「神に自分の開運を祈る」のであるが、本章では逆に、「神のご開運を祈る」という超・逆転の発想を紹介している。
このコペルニクス的転回の神観は、幕末の神道家・黒住宗忠が提唱したものである。・・・・・なぜ彼が、「神のご開運」という結論に行き着いたのか、を探っていきたい。
宗忠は外面的には、大本教の出口王仁三郎、天風会の中村天風など波乱万丈の人生を送った人物と比較すると、生涯を岡山で暮らした田舎の一神主にすぎない。
ところがよく、調べてみると、宗忠は日常的にイエス・キリストをほうふつとさせる数々の奇跡を行いながら、「何事も心次第」という天風哲学に通底する生命哲学を説き、大愚・良寛のような無欲な生活をした人物であり、「平凡の中の非凡」いや「平凡の中の超非凡」ともいえる隠れた神人なのである。
宗忠の死後、高弟・赤木忠春は幕末に京都に進出して、不思議な縁が重なり、皇族や公家の病気治療や祈願などを行った。宗忠が死去して六年後の安政三年(1856)はやくも「宗忠大明神」の神号をいただいている。
文久二年(1863)には京都・神楽岡に彼をご祭神とする宗忠神社が建立され、二年後にはなんと、孝明天皇の「勅願所」にまでなっているのである(孝明天皇は明治天皇の父君にあたる)勅願所とは天皇が祈願する特別な神社および仏閣のことであり、幕末動乱期において皇室が実質的な祈願をする神社として日本を陰で支えることになる。
これは民間の一神道家を祭る神社に対する扱いとしては異例中の異例のことで、日本の歴史上に例をみない。
そのため、幕末日本が生んだ不世出の神人として、「仏教に弘法大師空海あれば、神道に神人・黒住宗忠あり」と讃えられた。
太陽の神人 黒住宗忠 山田雅春著 より3~4p
*****************************************************************************************************
参考、 イエスは次のようなことを言われた。
神の国は、見えるような形で来るのではない 。だから、「ここにある」とか「あそこにある」などと言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。」
黒住宗忠教祖、
神仏おのが心にましますに他を祈るこそあわれなりけり
祈りても しるしなきこそしるしなれ己が心に誠なければ
天照太神 天命直授
↑
、がある太陽を表している。(霊界の太陽)では。
*****************************************************************************************************
備考、私の尊敬する人物です。 管理人。
*****************************************************************************************************
参考、
第2部 奇跡が起こる時
3 神仏への依存心を捨てよ 【 神は自分の心の中にある 】
昭和五五年一月初めに、八幡菩薩が 『政木の守護神となる』 との神示によって降臨されてから、私自身に今までになかった感覚が一つ増した。
それは、神社や仏閣に詣でて、手を合わせた瞬間に、胸にズシーンとくる感じのものである。 大きな神社でも、それを感じないところもあれば、小さなお宮やお寺でそれを感じることもある。
たとえば去年、名古屋の有名なA神宮に行った時、手を合わせたが、どこにも神の存在を感じなかった。 ただ、神官のレベルの低い赤い光が感じられただけであった。
それに対して、地鎮祭のようなものは礼儀的なものであって、ただ形式的に行うものだとばかり思っていたが、ある日、実際に神の降臨があったことを身をもって知るという体験を得た。
昭和五六年の暮も迫った冬至の日、岡山の林原生物化学研究所の地鎮祭が行われた。 テント内の式場に白装束の黒住(くろずみ)教の第六代黒住宗晴教王らがうやうやしく入場し、降神の “のりと” をあげた瞬間、私の胸にズシーンと、あるショックが発生した。
この全身に響く衝撃は、それまで感じることのなかったもので、神の存在を示す特殊なショックであった。 私は感激とともに眼を閉じた。 しかし、眼をつむった瞬間に、開いている時よりも明るい黄金色が、眼の中いっぱいに広がった。
不思議に思って再び眼を開くと、テントの中はそんなに明るくはなく、むしろ眼を閉じた時よりも暗い。 また眼を閉じると、前と同じように、非常に明るく輝く黄金色であった。
式典の終了後、社長にそのことを伝えると、社長は 『私にもその瞬間に、黒住教王が二倍にも三倍にも大きくなったように見えました。
神は本当に降臨されたのですね』 と、当たり前のように言われた。 私は以前、神の声によって 『汝、神仏の存在を信ずることができうれば、本日を限りとして神仏に対する依存心をかなぐり捨て、自己の力のみにおいて生きていくべし』 と告げられた。
以前、私は自分のレベルが低いのをたなにあげて、理解できないことは世の中に存在しないと、勝手に決めていた。
しかし、神とは神の存在を知り、信ずることができる気持ちになれば、それ以降は、神に依存心を持ってはいけないこと、神にお願いしてはいけないこと、ただ誠心をもって神に奉仕する気持ちがあれば、願わなくても、神は自分の希望の一〇倍も一〇〇倍もの力を与えてくれることは自然にわかるのである。
神前仏前にぬかずかないと神仏に心が通じないように思う人も多いが、神は人間の心を見透かすものであり、手を合わせて神前に頭を下げなくても、遠くから心の中で手を合わせることによって、心は神仏に通ずるものである。
『神は自分の心の中にある』 のである。 形式にとらわれず、心のあり方の問題であることを自覚すべきである。
欲望を捨てれば不可能がが可能になる
政木和三
宗忠神社参道