「どうしたら神になれるでしょうか」
もちろんそんな途方もないことを聞いても、誰も答えてくれるはずがなかった。そんな折、一冊の本が目にとまった。吉田兼倶が書いた「神道大意」である。兼倶は室町時代に、吉田神道を体系化した天才的な神道家である。
その中に「心とは神なり」という一節があった。彼はこの短い言葉からインスピレーションを得た。
「そうか、今まで神というものは、何か自分外にいるように考えてきたが、そうではなかったのか。
神さまは自分の心の中におられるのだ。いや、人間の心そのものがすでに神なのだ。
神になろうと思うなら、心に悪いと知ればそれを行わず、良いと思うことばかりを行っていくことだ。そうしていけば、きっと神になれる」
この着眼点はユニークである。
さすがといわざるを得ない。しかし言うはやすしだが、実際に実行するのはたいへんむずかしい。ほかのどんな厳しい修行よりも困難だといっても過言ではない。
人間といものは、酒の飲み過ぎは体に良くないと思っても、つい飲みすぎてしまう。タバコやギャンブルもしかりである。また、ウソや他人の悪口は良くないとわかっていながら、つ言ってしまうものだ。
自分の利益になることだったら、少しくらい悪いと思っても、「まあ、誰でもやっていることだから、これくらいはいいだろう」
と考えて、陰でこっそり悪いことをする。
良いとわかっていてもなかなか実行できないで、悪いと知りながらそれをやめられないのが人間なのである。
悲しいかな、これが浮世に生きる人間の性である。
人里はなれた山奥で誰とも接することがない生活を送っていれば、心を平安に保つことはある程度できるかもしれない。しかし、ふつうの日常生活の中でこれを実行するのは至難のワザである。それを青年・宗忠とことん頑張った。
しかし、実際にはそれがまだまだ表面意識上の、自力による修行の世界であり、そこには大きな壁があった。
つまり、自分が設定した善悪にだんだん縛られていき、自分で自分の壁を作っていったのである。
そして、そのおおきな壁を越えられないままに、彼は死の宣告を受けたのであった。
太陽の神人
黒住宗忠
山田雅晴著
第一章 大悟の道は身近にあったより。
宗忠神社