真理との邂逅 高級霊のメッセージ   

  「わたしは生命である」神の生命がわたしの中で生き給うが故にわたしは生きている。生命は神であり神は生命である。 心身の神癒 第6話6 *****あらゆることのうち最も重大なのは、神のみが生きてい給うのであり、その神が今の今御自身を顕現しつつあるのを認めることである。私の中に常に留まっておられるのは父であり、父が父御自身の業をしていらっしゃるのである。

「一心法界三昧」弁栄上人は24歳のとき筑波山に二ヶ月こもって日夜念仏を唱える修行をおこなった。」

 

 

米麦そば粉で飢えをしのぎ、口で念仏を唱え、阿弥陀仏の姿を心に思い浮かべ礼拝すること、毎日、ついに一心法界三昧を会得した。

 

弁栄上人の説明によると「一心法界三昧」とはこの宇宙に存在する森羅万象のすべてが自分の心の中にあることを悟ることだという。

 

自己と他人の区別、自己と環境、さらに時間と空間の制限を越えた世界、

二元性を超えた法界と自己の心が溶け合って一つになったのが法界心である。

その法界心そのものになったというのである。

 

一つだから、自他の区別はなく、そこには内側も外側も中間もないのである。

 

我々がなぜ心の中に宇宙のすべてが存在する事が見えないかというと自我の観念に覆われているからだと言う。

 

我々は肉体や思考や感情を自己と思い込んでいるのである。今まで自分の外側に見ていた森羅万象が内も外も区別がなくなり、あるがままに映し出されていることを大円境智と呼ぶ。

 

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  瞑想、神との一体感。弁栄聖者はやはりすごい人です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第7章 神とは何か

   

――大霊はこの宇宙とは別個に存在するのでしょうか。

 

そうではありません。宇宙は大霊の物的反映に過ぎません。大霊は物的宇宙と霊的宇宙にまたがる全体の統一原理です

ハエに地球が理解できるでしょうか。魚に小鳥の生活が分かるでしょうか。犬が人間のように理性を働かせることが出来るでしょうか。星に空全体が分かるでしょうか。人間的知性を遥かに超えた大霊があなた方に理解できるでしょうか。

それはできないに決まっています。でも、口に一言も発することなく、皆さんの魂の静寂の中で霊が大霊と交わることが出来るまでに霊性を磨くことは可能です

 

その瞬間には皆さんと大霊とが一つであることを実感します。

それがどういうものであるかは人間の言語では説明できませんが、自分の魂と森羅万象とが一つであることを静寂の中で悟ります。

 

                  シルバーバーチは語る。

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③直接、神と触れ合う祈りの段階 祈りとは、神に向かっての率直な語りかけです。

 

直接的な触れ合いを求めることです。私達の祈りは、ストレートに神に届くのです。

祈りの方法は、人間に語るのと同じようにすればよいのです。

一人の相手に向かって話しかけるのと同じことです。 ところで神も守護霊も、祈る私達の心の内をすべてご存じです。

私達一人一人の魂の成長にとって必要なものや、地上での最低の生活必需品についてもご存じです。

さらには私達の因縁や、今後の人生についてもご存じです。

そうした相手に向かって、一体何を祈ったらよいのでしょうか。

自分のすべてを知っている相手に、わざわざ語りかける必要があるのかということす。 しかし、それでも祈りは必要なのです。

それは祈りを通じて、さらに神との霊的触れ合い・霊的絆が深まるからです。

これによっていっそうの喜びが得られ、現実的に心が豊かになるからです。

神に語りかけるに際し、言ってよいことと悪いことがあるのは当然です。

この世の多くの人々がするような、自分の利己的な願い事・物質的な願い事をしてはなりません。

ご利益信仰的な利己的な要求を、霊界の人々がまともに受け取るはずがありません。

低級霊のからかい・いたずらの対象となるだけです。

魂の成長とは無関係なこと、因果律を無視したような祈りは、その人にとってマイナスになるだけでなく、何よりも神に失礼に当たるのです。

何を祈ったらよいのかは、霊的真理を正しく理解した上で、はじめて明らかにされます。

 次に霊的真理に照らして、正しい祈りの内容を述べることにします。

 

真理にそって、もっと自分の心を成長させたい。その道を示し導いてほしい。

•魂の成長のための苦しみに耐える力を与えてほしい。

•自分の醜い心をなくし、弱い心を強くしてほしい。

•自分の心にもっと深く人を愛せるような、広くて純粋な愛をやどらせてほしい。

•まわりの人々が一刻も早く時期がきて、霊的真理を受け入れられるようになってほしい。

•時期のきた人と出会わせてほしい。

•自分をもっと人々のために働かせてほしい。霊界の道具として役立ててほしい。

 

こうした純粋で霊的真理にそった祈りなら、神・霊界の人々は確実に聞き届けてくださるでしょう。

人の役に立ちたい、道具として使ってほしい」という願いが、道具となる人材の現れるのを待ち望む霊界の人々を引き付けないはずがありません。

必ず導き・援助が与えられるようになるはずです。

いかなる祈りをするにせよ、私達が第一に考慮するのはその動機なのです

動機さえ真摯であれば、つまりその要求が人のために役立つことであり、理想に燃え、自分への利益を忘れた無私の行為であれば、けっして無視されることはありません。」

                                                      

                                                        シルバーバーチの霊訓(6)』(潮文社) p.56

 

 

祈りに際しては、声を出すべきか、出さなくともよいのかという問題がありますが、シルバーバーチは、地上人にとっては、声を出して祈ることで自分の考えが明確になるから声を出す方がよいと言っています。

とはいっても、それでなければならないと言っているわけではありません。

確かに声を出すと、祈ってよいことと悪いことの区別をしなければならなくなり、おのずと自分の姿勢もしっかりして、真理に合った祈りをせざるを得なくなります。

そうした心構えをつくるだけで、自分の思いの中にあった不純さが払拭されるようになります。一方、声を出すと深い世界での祈りがしにくくなるというマイナスもあります。 もし意識が集中できない時には、声を出して、祈りの言葉を心をこめて何十回、何百回と繰り返すのもよいことです。

 

神への祈りが進むうちに、やがて広大な宇宙の中に神と自分一人だけがいて、別の世界に吸い込まれるような体験をするようになるかも知れません。

 

そうなると、もはや語りかける言葉も必要なくなります。すべてが通じ、自分の体が無くなっているように感じます。

深い深い静寂の奥に吸い込まれ、静かで澄み切った無限の世界が広がり、手を伸ばせば、神に届くかのような世界に入って行きます

そうするうちに時として、さらに急激に世界が変化することがあります。自分が突然、宇宙と一つとなり神と一つとなるような衝撃的な感覚、自分が宇宙大になったような感覚に包まれます。

堰を切ったように感動が湧き起こり、体の一つ一つの細胞すべてが酔いしれるようなエクスタシーの状態に入って行きます。こうした最高の体験、一瞬ではあるが最も深い霊的体験をするようになります。

地上にいて味わう最高の世界、昔から言われてきた三昧の世界、ニルバーナと譬えられてきた世界へ参入することになります。この至福感・喜びは、地上のどんな喜びも比較になりません。まさに人間が体験する極限の心地よさなのです

それは私達が死後、霊だけの存在になった時、直接神の愛に酔いしれる感触・体験なのです。そうした喜びの極致を、地上にいながらにして味わう最も幸せな瞬間なのです。

それは地上の時間では瞬時の体験ですが、あまりにも強烈で刺激的なため、一度体験すると、もはや忘れられなくなります。 「天と地が融合した極限の瞬間――あっという間の一瞬でありながら、すべての障壁が取り除かれた時、人間は自分本来の霊性を自覚します。すべての束縛を押し破り、霊の本来の感覚であるところの法悦(エクスタシー)の状態に達するのです。

                                                       『シルバーバーチの霊訓(2)』(潮文社) p.195

 

やがて最初の静けさを実感する。何やら宙空を滑るような、あるいは深い淵へ沈み行くような、そして感覚的なものから解き放たれるような感じがする。そして次の瞬間、エクスタシーを体験する。」

 

       『マイヤースの通信 個人的存在の彼方』(スピリチュアリズム普及会) p.194

 

    

                スピリチュアリズムにおける  瞑想・祈り  ニューズレター 4号

 

 

参考、

 ねんぶつ-ざんまい【念仏三昧】の意味 出典:新明解四字熟語辞典(三省堂

心を静かにして、一心に仏を思い浮かべること。また、それによって得られる心の安らぎ。さらに、ひたすら念仏(南無阿弥陀仏なむあみだぶつ)を唱え、それにより雑念妄想を取り払うこと。

▽仏教語。「念仏」は、仏を思い浮かべること。また、南無阿弥陀仏を唱えて、阿弥陀仏を思うこと。「三昧」は、何かに集中することによって、心が安定し動かされないこと。

 

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山崎弁栄上人 から引用 

 

 

上人は安政六年二月二十日下総国 鷲の谷に生まれ、21歳で浄土門に入 って4年足らずで悟りを開いた。

上人は一切経を読破し、光明主義という一宗を起した。

新しい寺を建立するとき、遠く行脚し、一人一厘を乞うたが、貧窮者に遇 えば、喜捨で得た金や米をすべて与え、また一厘から始められた。

道を歩くにも、蟻はもちろん、若草まで踏まないようにした。

明治27、8年インドに旅して、釈尊の遺跡を巡歴し、日本に帰ってから、 阿弥陀経図絵を日本中を巡り歩いて施すこと25万部という。

お寺に泊まるときも、わざわざ下男の部屋に泊り、夜寒の町に貧者を訪れ ては、当日供養を受けた下着を脱いで与えたという。

ある信者が、上人に分厚い自然科学全書を差し上げた。 上人は、その本を左の手で持って、その本の腹のところを右の親指を当て て、ピィーとページを弾かれた。

差し上げた人が「何をなさったのですか」と尋ねると 「ハイ、これで分りました」と上人は答えられた。

その人は上人のお許しを得て、2,3箇所聞くと、上人はスラスラと答え られた。

  

 

 

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 不殺生の行為

 

蛇が衣を這い上がり、猿が無心に戯れる中、弁栄聖人は体はやせ衰え垢だらけ、髪も髭もぼうぼうになって窟に篭り、一日に十万回の念仏を称え、虚空を我が心とした我々のような凡人にはいくら想像しても想像できない境地だという。

下山して支援者の家に立ち寄った時、汚れた肌着に虱(しらみ)がうようよしていたので家人が熱湯をかけて殺そうとした。弁栄上人は「そのまま裏口に干しておいてくだされば、虱はてんで好きな方えいってしまいます。」と言って家人が虱(しらみ)を殺そうとす行為を止めさせた。その後も古くなった着物に虱がわいても決して殺さず日向に出してその去るのを待った。

また、刺した蚊を潰す者を見ると弁栄上人は「そうしてたたくと蚊の針の先が体に残って毒になります。そっと追うと針を抜いて去ります。」と諭した。弁栄上人の歌「やみのよになける蚊のこえかなしけれ血をわけにけるえにしおもえば」

手足を蚊にさされても弁栄上人がじっと血を吸わせて追われもしないので「お上人様蚊が」と申し上げると「命がけでくる蚊です。血の一滴や二滴供養してもいいでしょう。人はわずか蚊一匹のために五尺の体がとらえられて鬼の心になる。そして蚊を殺したと思っているが、自分の大切な霊性を殺していますね。」と静かにお話になった。それまで蠅たたきをつくってまで殺しまくっていた求道者たちはそれから蠅も蚊も気にしなくなったという。

 

歩く時は道に這う蟻を気をつけて避けて通られる。子供がこれにいたずらをしている所を見ると、「蟻さんの子や兄弟が泣きますよ」と丸みのあるやさしい声をかけられた。

 

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無執着

 

 ある日訪れた信徒が、上人が土鍋で白い汁を煮ているのを不審に思い、何ですかと尋ねると弁栄上人「これは白米のとぎ汁です。米の方は来客に出してしまったので、今日はそのとぎ汁を飲んでいます

 

飯米がない。村人からあるいは甘藷、あるいは麦をいただいて飢えを凌ぎ、三日くらいは食べる物なき時もあった。お困りでしたろうと尋ねる人あらば、弁栄上人「時々断食してみると、身も心も軽くなり、よい気持ちです

 

冬も火鉢はもちろん布団もない。朝早く訪ねた人が上人のおつもりに藁切れがついているのが可笑しく、わけを聞けば上人「このごろは寒さが強いから、藁を着て寝ます」

よい下駄を供養するものがあれば辞退して上人「坊主によいものはいりませぬ

予言ができるとか、 病気がなおるとか、そんな奇跡がなんの価値がありましょう。

凡夫が仏になる。これほど大きい奇跡がまたとありましょう。

 

山崎弁栄上人は人々に阿弥陀如来の知恵と慈悲の光明の中で念仏をとなえて生きてゆくことを教えた。自らの信仰を光明主義と呼んで、生涯、熱心な布教活動を続づけて多くの帰依者を得た。山崎弁栄上人は他説を破邪することがなかった。上人は全てが完全に向かう姿と見えたのである。

 

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 慢心

 

霊験を求めていた婦人が弁栄上人に帰依し45年間精進してなんらかの霊験を得るようになった。そのうちその婦人は自分の境界を吹聴するようになった。

能力をひけらかす自己評価欲求がみたされていないからで、「私をみて、私てこんなにすごいのよという行動パターンを取ってしまう。慢心もすぎれば問題を起こすのである

上人「三歳の子供だ正宗の名刀を振り回しても自他ともに傷をつくる。」

上人「水晶のコップでも穴があっては役に立たぬガラスのコップでも無疵(むきず)のものがいい」

 

 弁栄上人は自分から世間話をされたことはなく新聞にある出来事を申し上げても「左様で」と低い声で簡単に受け答えされるだけっだった。弁栄上人があまりにもおごそかだなので、窮屈かと思えば終始なごやかで親しみ深かったという。無駄口一つされずいつもニコニコされていた。

 

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弁栄上人の心境

 

不動明王を信仰する行者が

「私はときどき亡者を見ますがあなたもさだめて亡者をご覧になるでしょう。」と申し上げると

上人「いや私は生き者ばかりが相手ですから、亡者はみません。」と話された。

 

一般的に超能力や霊的な現象のあるところにはそのことに興味を持つ者が集まってくるものだ。弁栄上人は決して自分をひけらかす事をしなかった。弁栄上人はひたすら光明のただ中にいた。しかし侍者は弁栄上人の天眼が開いていことを知っていた。

 

江戸川べりを通っておられると急に立ち止まって合掌念仏された。従者がその理由を尋ねると水辺に水死体があるといわれる。従者がこれを村人に話すと丁度水死した人が上がらずに困っていた。その場所を探した所果たして溺死したい発見された。それを話されても弁栄上人は振り向きもせず、「ほうそうですか。」

 

  ある夜、「この寺で、三十歳くらいの肥った婦人が亡くなったことはないか」と尋ねられた。この寺では先代の住職の妻が臨終のとき苦しんで若くして亡くなり、あと追ううかのように続いて住職も亡くなっていた。念仏を唱えている弁栄上人の心鏡にそれが映ったのである。

 

 無限の光

 

弁栄上人はいかなる時も「それは困った。」などと言われることはなく、都合の悪いことにもよい事にも「それが良い、」「それで良い」としかお答えにならなかつた。

 

弁栄上人による涅槃とは生死の夢から覚めて真如の光が現れることだという。

私たちは無限の光と無限の命の世界からやって来てそこえ又帰る存在なのだ。正覚とは太陽が出て、心の夜が明け、今まで見てきた娑婆世界が消え宇宙全体が真実に輝いて、光明に満ちた蓮華蔵世界が現れることだというその絶対なる世界が弥陀無量光如来のことだという弁栄上人は阿弥陀仏を諸仏の中での一仏ではなく、宇宙の大生命そのものととらえた

 

念仏について弁栄上人は「心が阿弥陀に同化した上はたとえ念仏を唱えなくても一切の行為が念仏となる。阿弥陀の業が行為に表れるのならばむしろ立派な行為である。念仏とは口で唱えるだけではない阿弥陀の心より出る行為は口で唱える以上の念仏である。従来の念仏者はただ口ばかりを重く見て仏の行為をしないのは発展度が低いことだ。」と語った。

 

阿弥陀の語源はサンスクリット語のアミタユースあるいはアミターバが語源だがアミタは「無限」アユースは「寿命をもつ」の意味なので無量寿という中国語訳があてられた。アミターバはアーバの意味が「光持つ」なので無量光と訳された。阿弥陀は意味を訳さず音を漢語にそのまま当てはめたのである。そうすると阿弥陀の世界とは死んだ後の世界のことではなく、この宇宙そのものをあらわしていることになる。

 

 

 

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弁栄上人は明治の人であり、その教えは仏教用語に満ちており、我々凡人には難解である。

その霊性の高さは計り知りえない。尊敬する人物の一人であり、これほどの聖者の存在を知りえただけで感謝しております。 

 

光明高校の創設者で、昔、訪ねた時に、光明高校の校庭に上人の銅像がありました。 

    

 この方の伝記を読むたびに、めがしらがあつくなり涙がこぼれてしまいます、少なからずとも私の人生に大きな影響を与えた人物です。

 

 

 僭越ながらご紹介させていただきました。               

                       蒼氓。

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「預言ができるとか、病気がなおるとか、そんな奇蹟がなんの価値がありましょう。凡夫が仏になる。これほど大きい奇蹟がまたとありましょう。   

 

 

 

 この言葉は、大変なお悟りの言葉にきこえます。    蒼氓。

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引様・参考文献

イーハトーブ心身統合研究所

山崎弁栄上人

光明修養会