~第七章 チベットの風習(二)・愛恋実話~ 」
には、心身の神癒に関し、次のような記述がある。(一部を抜粋しています)
『 「そんなこと〔神懸かりを通じて語られたこと〕をみんな書いて発表でもしたらどういう事になりましょう?眉唾ものだという訳で、誰一人として信じてくれる者はいないでしょう。」
無智な者は信じないだろうね。狂信者も信じまい。
併し元々それは彼らには用はないのだ。それは形而下(けいじか)〔物質的なもの〕を超越した者、
それを見るように聞くように地上に於いて撰ばれた者のためなのである。
云われることは全部書き取り、一語も洩らしてはならぬ。師のこの言葉の重大さは後になって分かったことであった。
師のこの言葉がなければ、
『心身の神癒(主は再び語り給う)註』(霞ヶ関書房続刊予定)は書き録(しる)されなかったであろう。
気がついてみると、私たちは僧院への嶮(けわ)しい勾配を何時の間にか登り切っていた。
心身の神癒を読まれている同志の皆様、まだ読まれていない同志の皆様、
全ての方がた、私たちは一体です。
感謝と謙遜のうちに、共に精進いたしましょう。
平安と愛と善意のご挨拶を送らせていただきます。
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備考、
それを見るように聞くように地上に於いて撰ばれた者のためなのである。
蒼氓。