人間が堕落したもう一つの要素
精神的、文化的な発達が堕落の促進要素になつたということを理解するためには、幼児の精神の発達と比較しながら考えてみるとわかりやすい。
当初はただ霊魂の衣服としての肉体を持っていて、地上での生のために肉体感覚を最小限に与えられていただけなのが人間であった。しかし、そのような肉体感覚を使うことで、
人間は理性や想像力などのより高級とされる精神や意識の作用を発達させていった。
そしてその能力もやや間違った方向に使った結果として、
堕落を促進する要素のひとつになったのだ。
この過程は、たとえば子供が熱く煮えたぎったやかんに手を触れたとしよう、彼は肉体感覚によって、熱いと感じて手引っ込める。こういうことを繰り返すうちに、彼は熱いものに触れれば熱い思いをするということを知る。
これは手を触れることと熱いやかんなどの関係を理解するこであり、つまりこれが
理性の発達である。
このように肉体感覚から次第に人間は理性といわれるものや、想像力その他の心の作用を発達させていった。
しかし、
①
単なる理性なるものは肉体感覚がもとになって発達したものゆえに、霊的な知覚とは無関係で、単に物質的なことを理解するのに役立つだけのものである。
だが、人間は地上的になるに伴って、
この理性を誇るようになり、それを堕落の促進要素にしてしまったのである。
理性が堕落の促進要素になったということについては、
読者は本書の中でこれから随所で気づくはずだから、ここでは詳しくいわないでおく。しかしイブは蛇にそそのかされて知恵の樹を食べさせられたが、はじめは蛇のそそのかしに首をふってためらった。しかし、最後には樹の実を食べ、さらに同じ実をアダムにも食べさせるという過程の中にもすでにその一例があらわれているのだといってよい。
②
イブは霊的、天国的知覚ではなく理性に従ったために、そのように行動したので、ここに働いたのは理性であった。
蛇の話のついでにいうと、私はよくこの蛇の故郷は多分エジプトであったという話をする。
蛇ももともとはエホバによってつくられたものであり、別に悪ではなかった。ただ物質的なことに関する能力(いうなれば理性)を表していて、その意味で賢く、
単なる低い善であった。
それが悪役になったのは、
低い善ばかりはびこることになったためであった。
また子ども話でいうと、最初子どもは裸で生まれてくる。しかし、その後衣服を着せられたりして文化的恩恵を与えられる。
人間もこれと同じで、時代が進むにつれ、さまざまな文化を発展させた。これ自体別に悪ではない。
ただ低い善であるだけである。
しかし、
これはあくまで低い善で霊的、天国的なものに対していえば、地上的、外的なものである。だが、人間はこういうことに喜びを感じるようになり、次第に高い善から遠ざかるようになった。
かつてエジプトでは、カナンと同じように人間の黄金時代がきた。
しかしその後、外面的な文化をもっとも華やかに発展させたのはエジプトであった。
そしてそれ自体は悪いことではなくも、
やはり堕落の促進要素になってしまった。
私が比喩的蛇の故郷はエジプトだというのはそういう意味であった。
******************************************************************************
参考、
聖書の解釈。スエーデンボルグ著。抜粋です。
すこし、難しいかも。?
高級な話ですが、理性について書かれています。
①、②、は凄い話です。
参考、
り‐せい【理性】の意味
1 道理によって物事を判断する心の働き。論理的、概念的に思考する能力。 .
2 善悪・真偽などを正当に判断し、道徳や義務の意識を自分に与える能力。「理性を失ってつっ走る」 .
3 カント哲学で、広義には先天的能力一般。狭義には悟性・感性から区別され、悟性の概念作用を原理的に統一・制御・体系化する無制約の認識能力。理念の能力。
4 ヘーゲル哲学で、悟性が抽象的思考の能力であるのに対して、弁証法的な具体的思考の能力。 .
5 宇宙・人生をつかさどる基本原理。
霊的、天国的知覚。高い善。
肉体(感官)よりの理性はたんなる、低い善であったことが言われている。
より高度な真理へ。
真理は我々の理性に反するものではなく、我々の理性を超え、我々の比較を超えて、未だ曽て探査されたことのない領城に及ぶのである。
ゆえに貴下の理性で貴下自身を制限してはならない。貴下自身の欠如した理解力で貴下自身を限定してはならぬ。・・・
私論、
肉体的理性は霊的真理が凌駕している。
常識的、理性は普及など、など、
高度な霊的真理は理性を凌駕(超越している)している。
真理探究者。 蒼氓。
**********************************************************************************************
参考、
信仰と理性
「神を感じるのは心情であって理性ではない。信仰とはそのようなものである。」
パスカルが言うように、信仰には理性を超えたところがある。古典的な三段論法を使えば、次のようになるだろう。
もしも神がすべての存在に先立つ「存在」であり、われわれがその中に生きている自然も神の創造によるものだとすれば、まさしく神は自然を無限に超えていると言うべきである。
ところで信仰とは、その神を信じることである。とすれば、信仰とはまさに超自然的行為に他ならない。 自然のものごとにさえ理性を超えたものが無数にある。
超自然的なことについては言うまでもないだろう。 だが、それは理性の役割を否定することでは決してない。最初から理性を無視するようなら、それは信仰ではなく、迷信や盲信と呼ぶべきである。
パスカルはこうも言っている。
「理性の最後の歩みは、理性を超えるものが無限にあるということを認めることにある。それを知るところまで行かなければ、理性は弱いものでしかない。」
ただし、気を付けよう。これは理性を徹底的に行使し、理性によってとらえられる限界までものごとを追求することを前提として述べられているのである。
その上で、理性は自らの限界を認め、限界を超える領域については、心情のはたらきにゆだねる ―― これこそ、すぐれて理性的行為と言うべきだろう。
警戒すべきはむしろ「理性を排除すること」と「理性しか認めないこと」という「二つの行き過ぎ」である。
信仰と理性は両立できないというのは、だから間違った先入観である。
だれも自分が知らないことについては確信がもてないように、信仰も、学び知る努力を伴わなければ人は神を信じることもその教えを受け入れることもできないのである。
より良く知ることによって理性が納得し、心情が同意したとき、はじめてそれは深い信仰となりうる。
パスカルにならって言えば、「理性の服従と行使、そこに真のキリスト教がある。」
パスカル。