真理との邂逅 高級霊のメッセージ   

  「わたしは生命である」神の生命がわたしの中で生き給うが故にわたしは生きている。生命は神であり神は生命である。 心身の神癒 第6話6 *****あらゆることのうち最も重大なのは、神のみが生きてい給うのであり、その神が今の今御自身を顕現しつつあるのを認めることである。私の中に常に留まっておられるのは父であり、父が父御自身の業をしていらっしゃるのである。

霊的向上の道は自分で切り開かないといけない。

 

 

危険信号が見えた時は、いつも注意してあげているのですが、それが無視されて病気になる人がいるのは残念です。 が、全てはその人の責任というのが、私たち霊の教えの基本です。 許されることなら、代わって荷を背負ってあげたいと思ったことが何度もありました。 が、霊的向上の道は自分で切り開かないといけない以上、それは許されないのです。

 

 

                   シルバーバーチの霊訓 (11)

 

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もしも私がある人にとっての真理を説き、それを聞いてあなたが “私には信じられません” と正直に言っても、私は不愉快には思いません。

あなたへの愛の気持ちは少しも減りません。 なぜなら、あなたはこの地上で、あなたなりの理性、あなたなりの良識を使い、納得しないものは拒絶することで自己開発するようになっているからです。 その最終的な裁定者として、私が敬意を表している理性によって、あなたの賛同を得ることが出来なければ、それは私が役に立たなかったことを意味します。

 

                    シルバーバーチの霊訓(11)

 

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魂というものは開発されるほど単純さへ向かいますが、同時に奥行きを増します。

単純さと深遠さは 同じ棒の両端です。

 

作用と反作用とは科学的に言っても正反対であると同時に同一物です。

進歩は容易に得られるものではありません。

もともと容易に得られるように意図されていないのです。

われわれはお互いに生命の道の巡礼者であり、手にした霊的知識という杖が困難に際して支えに なってくれます。その杖にすがることです。

霊的知識という杖です。それを失っては進化の旅は続け られません。

 

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魂というものは開発されるほど単純さへ向かいますが、同時に奥行きを増します。単純さと深遠さは同じ棒の両端です。

 

私はつねづね二つの大切なことを申し上げております。一つは、知識の及ばない領域に踏み込むときは、その知識を基礎とした上での信仰心に頼りなさいということです。

それからもう一つは、つねに理性を忘れないようにということです。

理性による合理的判断力は神からの授かりものです。あなたにとっての合理性の基準にそぐわないものは遠慮なく拒否なさることです。理性も各自に成長度があり、成長した分だけ判断の基準も高まるものです。一見矛盾しているかに思える言説がいろいろとありますが、この合理性もその一つであり、一種のパラドックス(逆説)を含んでいますが、パラドックスは真理の象徴でもあるのです。

 

                                                 シルバーバーチ霊訓(6)

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参考、 

  

信仰と理性  

 

「神を感じるのは心情であって理性ではない。信仰とはそのようなものである。」

パスカルが言うように、信仰には理性を超えたところがある。古典的な三段論法を使えば、次のようになるだろう。

 もしも神がすべての存在に先立つ「存在」であり、われわれがその中に生きている自然も神の創造によるものだとすれば、まさしく神は自然を無限に超えていると言うべきである

ところで信仰とは、その神を信じることである。とすれば、信仰とはまさに超自然的行為に他ならない。  自然のものごとにさえ理性を超えたものが無数にある。

超自然的なことについては言うまでもないだろう。  だが、それは理性の役割を否定することでは決してない最初から理性を無視するようなら、それは信仰ではなく、迷信や盲信と呼ぶべきである

 

パスカルはこうも言っている。

理性の最後の歩みは、理性を超えるものが無限にあるということを認めることにある。それを知るところまで行かなければ、理性は弱いものでしかない。」

ただし、気を付けよう。これは理性を徹底的に行使し、理性によってとらえられる限界までものごとを追求することを前提として述べられているのである。

その上で、理性は自らの限界を認め、限界を超える領域については、心情のはたらきにゆだねる ―― これこそ、すぐれて理性的行為と言うべきだろう。

 

警戒すべきはむしろ「理性を排除すること」と「理性しか認めないこと」という「二つの行き過ぎ」である。  

 

信仰と理性は両立できないというのは、だから間違った先入観である。

だれも自分が知らないことについては確信がもてないように、信仰も、学び知る努力を伴わなければ人は神を信じることもその教えを受け入れることもできないのである。

より良く知ることによって理性が納得し、心情が同意したとき、はじめてそれは深い信仰となりうる。

パスカルにならって言えば、「理性の服従と行使、そこに真のキリスト教がある。」

 

 

                

     

 

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