6・・・理性で己を制限することなかれ
真理は余りにも不思議に満ち、人間の脳では十分には理解しえぬほどである。
それでいて
真理は我々の理性に反するものではなく、我々の理性を超えて、未だ曽て探査されたことのない領城に及ぶのである。
ゆえに貴下の理性で自身自身を制限してはならない。
貴下自身の欠如した理解力で貴下自身を限定してはならぬ。
いかなる方法によろうと、
測り知ることのできないものを意識するようになることが、我々の人生においては肝要である。
種々様々な行法によろうと、瞑想によろうと、聖なる推理によろうと(それらは目的への手段にすぎぬ)、哲学、独断論、教条によろうと(みなそれぞれに限定がある)
それらもまたすべて貴下を導く踏み石にすぎないのである。
筆者はいかなる宗教も、独断論も教条も否定するものではない。貴下にたいしていかなることも否定はしない。
しかしそういったものの中で足掻くのはやめるがよい。
霊能開発の行法や心霊体験で得た力の中で足掻いてはならぬ。
もしも健康ためのみの健康、物質的利益のみの利益、何にせよただそれだけのために何か、を求めるならば、それら【の目的ー補訳】は貴下を忌避すすであろう。
ゆえに、
真理を求めるがよい。そうすれば貴下はあらゆるものを見い出すであろう。
貴下が神と貴下自身に対して完全なる信仰と信念とを持つのであれば、貴下は十分に【その果報をー補訳】受け取るであろう。
貴下は神の愛と叡智と力と一つになる。
この教えはあらゆる教えの中でも最も驚嘆すべき、最も輝かしいものである。それが大師方の書かれざる言葉である。
訳注
なお、秘教ではこの「言葉」は神より発せられる「波動」とも教える。万物万象は帰するところ波動の違いあることは現代物理学の証明することろであり、第一節に続く「言葉は神なりき、はじめに神ともにあり、万物は言葉によって造られたり。造られたもののうち、一つとしてかれによらずして造られしものなし」の意味が分明となる。
ただしこの「言葉」を神の三位のうちの子(即ち、キリスト)としたのはキリスト教神教の多くの誤ちのうちの一つである。
貴下はいろいろな修法を行じ、いろいろな哲学等を学んできたかもしれない。それによって確かに得るところがあるにはあったであろう。しかし、貴下が「わたしは彼であり、彼がわたしである」、「父とわたしは一体である」と言うとき、神の智慧が貴下を導くであろうことを知るであろう。自己一身のためにだけ求めるのではなく、他の人々もまた道を見い出すように願い求めるがよい。なぜならば、自己一身のためにのみ求める者は利己主義者であり、その力は限られているからである。
己が魂のみ救いを求むる者は
道を見い出すともゴールには達せざるべし
愛の中にあって働く者は遠く道にさまようとも
神は、祝福されし人々の許に、彼を連れ
行かん。
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参考、
私の、メモ書き、作者不明。
深い教えです。
き ひ [1] 【忌避】 ( 名 ) スル ① きらってさけること。 「徴兵を-する」