言葉について
私たち言葉というものを簡単に考えて、毎日なんら意識もしないで気軽に使用していますが、
今日は言葉の重要性についてお聴きしたく思います。
A: 人類と他の動物とを明確に区別する特徴は、人類はまず火を使い、道具を使い、言語を使用していることです。
言語は集団生活の中での伝達方式であり、抽象的概念に名称をつけて体系づけたものです。言語を自分の意思で選択して使用したものが言葉となります。ですから言語には責任はありませんが、言葉には責任がともないます。
言葉は人間の生活を、良くもするし悪くもします。また他人を傷つけもし幸福にもします。言葉は、社会生活、人
A: 「言葉と宇宙霊とは、力学的な関係をもち、プラスの言葉を使えば、プラスのエネルギーが
思考作用と言葉とはどのような関わりがありますか?
A: 言葉は音声を通して話される前にすでに頭の中で言語活動をしています。これを言語心理学では「インナー・スピーチ(内的言葉)」と称しています。言葉は思考を通して出てくるので、思考は言葉とつながっています。ですから弱い言葉を使っていると思考も消極的になり、強い言葉を使っていると思考も積極的になるものです。
以上が、言葉に関する心理学からの科学的な見方です。
それでは、天風哲理の言葉の使い方は、いかがなものなのですか?
A: 天風哲理は言葉の使い方を、3つのカテゴリーに分けています。
第一;自分自身に対する言葉。
*どんなことがあっても消極的なマイナスの言葉は使わない。
だめだ、困った、しょうがない、やんなっちゃう、限界だ、などの言葉を使わず、
明るく、朗らかな、活き活きとした勇気ある言葉を使う事。
*不確実な言葉を使わない事。
不確定な言葉は、心が不確定だからであり、言葉が迷うと思考も迷い、思考が迷えば
行動が迷います。前向きな断定の言葉を使えば心も前向きになります。
*自己卑下する言葉を使わない事。
謙遜が行き過ぎると自己卑下になってしまうから表現に気をつけること。
自分を自分で激励する言葉を使うそうにし、これが自己暗示にもなります。
第二;他人に対する言葉。
*他人に対しては、常に積極的なプラスの言葉で接すること。
言葉というものは、人を容易に傷つけもし不幸にもします。
また、運命を切り開き、人を幸福にもします。
ですから人には積極的な明るい、朗らかな、活き活きした勇ましく、
かつ調和に満ちた言葉で接すること。
「口害」は慎むべきものです。
第三;大宇宙に対する言葉。
*大宇宙の根源主体に対する言葉の使い方。
こんなことは誰も言ってません。天風先生だけであります。
先生は;「我が生命は大宇宙の生命と通じている。我が生命は心が主宰している。
その心の中の働きは思考であり、思考が表現されたのが言葉である。故に言葉は
宇宙霊へと響きわたる」と言ってます。
もし、私たちが積極のプラスの言葉を使えば、大宇宙の結合と建設の働きはグングン
と我が生命に流れ込み、もし、私たちが心ならずもマイナスの消極の言葉を使えば、
分解と還元の働きが我が生命の中に入って来ることになります。
昔の人はこのことを直感的にこれを知っており、「言霊」と言ってました。なんと
言葉は宇宙とつながっていて、宇宙霊をゆさぶります。
言葉のもつ重大さと正しい使い方が自覚できました。
それでは、まとめをお願いします。
私たちは常にプラスの言葉を使い、プラスのエネルギーを導入すればいいのです。
ではどのようにすべきか、「言葉の誦句」の中にあります;「私は 今後かりそめにも 我が舌に悪を語らせまい。
否、いちいち我が言葉に注意しよう。
同時に今後私は もはや 自分の境遇や仕事を
消極的な言語や悲観的な言語で批判するような言葉は使うまい。
終始、楽観と歓喜と輝く希望と溌剌たる勇気と、調和に満ちた言葉でのみ活きよう
そして宇宙霊の有する無限の力を 我が生命に受け入れて、
その無限の力で 自分の人生を 建設しよう」。
このように積極的な言葉で生きますと自ずから思考がプラスになり、そして心もプラスとなり、いよいよ宇宙霊との結び目も緊密になり、運命も開けてきます。
こうした努力もせずに、手前勝手にお賽銭を上げて神や仏にお願いしてもだめなのです。
良い事があってから感謝するんじゃ遅い。先に感謝しとくんだよ。
中村天風。
素晴らしいです。
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御教えをいただく
何事もありがたいにて世にすめば
むこうものごとありがたいなり(御文一四三号)
黒住教は、〝ありがとうなる〟生き方で、感激感動そして感謝の心を養う道といえます。その陽気な心が開運の基となります。
ご幼少の頃より親孝行として知られていた教祖神は、文化九年(一八一二)、わずか一週間のうちにご両親を流行病(赤痢かチフスの類い)で失われました。その悲しみは筆舌に尽くせないほどに深く、心を陰気に閉ざした教祖神はそれが因で、当時〝不治の病〟と恐れられていた労咳(肺結核)にかかり生死の関頭に立たれました。そして文化十一年一月十九日、せめて今生の別れにとご家族の反対を押し切って御日拝をつとめられました。この折の様子が、『教祖宗忠神御小伝』(星島良平高弟著)に記されています。
「吾元來父母の死を哀みて、心を傷め陰氣になりしより大病になりたれば、面白く樂く幡然て心を養い、心さえ陽氣になるならば病は自から愈べきはずなり。只一息する間にても心を養うが孝行なりと思いさだめたまい、見るにつけ聞につけ天恩の難有きことを思惟い、一向心を以て心を養い給いしより、日々にうす紙をへぐが如く快方に赴わせたまう」。
教祖神の御心が陰から陽へと大転換したことによって、まさに九死に一生を得られたのです。なお、この時の御日拝を〝第一次の御日拝〟とかねてお称え申し上げてきています。
ただ一息する間にても、見るにつけ聞くにつけ、天恩の有り難きことを思い、心をもって心を養われた教祖神の〝徹底感謝〟の御一念を常に心掛けることが、最も大切な心の修行といえます。いわば、〝感謝の誠〟を捧げることこそ、お互いの下腹に鎮まる天照大御神のご分心(わけみたま)を丸く大きく養い育てる道であり、やがては何事も有り難いという心持ちになり、「ありがとうなる」ことができるのです。
教主様には先年、「『ありがとう』反対ことばは『あたりまえ』心なおしてありがとうなる」と詠じて、当たり前のことに感謝できる心、さらに〝一切神徳(全てがおかげであり有り難い)〟と受け止める大切をご教示下さっています。「ありがとうなる」を目指し心を養う修行をつとめ、共々におかげをいただいてまいりましょう。
素晴らしです。
蒼氓。