真理との邂逅 高級霊のメッセージ   

  「わたしは生命である」神の生命がわたしの中で生き給うが故にわたしは生きている。生命は神であり神は生命である。 心身の神癒 第6話6 *****あらゆることのうち最も重大なのは、神のみが生きてい給うのであり、その神が今の今御自身を顕現しつつあるのを認めることである。私の中に常に留まっておられるのは父であり、父が父御自身の業をしていらっしゃるのである。

ヒマラヤ聖者エミール大師の奇跡

 

 

ヒマラヤ聖者エミール大師の奇跡(8)

 

2013年06月27日 | アートマ(真我) 誰にも来る再び生まれる時  

 

 平成25年6月27日 ***********************************************

著者はしがきから

 

わたしは、1894年に極東を訪れた11人の調査団の一員であった。3年半にわたる極東滞在中、 ヒマラヤの大師たちに接触した。

 

大師は私たちが 偉大なる法則の働きを実証されるのを実際に見るために、大師がたの生活の中に 親しく入り込むことを許してくれた。

 

******************** 旅は 順調に続けられていた。ある朝、日の暮れる前に、到着地に着くと、翌朝、エミール大師が現れた。 その大師の語るお話しである。

 

“皆さんに話をする場合、私が皆さんの言葉(英語)を使うのは、私たちの信念の底にある、 大いなる原理を、少しでも多く、皆さんに判ってもらおう、という気持ちから出ています。

 

総ての人が、一様に真理を正しく掴んでおれば、彼らはその根源を同じくすることになりはしない でしょうか?

 

私たちは 普遍心~Universal Mind~、即ち、

神において、一つではないでしょうか?

私たちは、すべて一つの家族ではないでしょうか? 

総ての子らは、この地上に生まれたすべての 子供は、その種族や信条はどうであろうと、この大家族の一員ではないでしょうか?”  

 

さらに、大師は言葉を続ける。 ”イエスが ‘我はドアー(須田注: 扉、入り口の意味)である ’と言われたのは、各人の魂の中にある  I AM(神我=われ神なりという実相)こそ、神の偉大なる 生命 と 力 とに等しく、各人が、 それを、具象化する 入口として イエスが来て各人が、それに、気が付くことを、言い表したのです。

 

この I AM が、現れ出る方法は ただ一つあるだけで、それは、考え、想念・言葉・行為 による ということです。

 

この I AM、即ち 神なる、実相、(力、本質、智慧)は 意識 だけによって、形 が与えられている。 

 

このゆえに、大師キリストは、‘汝の信ずるが如く 汝になれ’ と 言い給い、また、 ‘信ずるものには、すべてのことが可能である’ と言われたのです。 わたしたちは、今や、神が力、本質、智慧として、霊的な言葉で言い変えれば、智慧、愛、真理  として魂の中にあり、意識によって、具象化し、表現されることを知りました。

 

(*1) さて、意識は神の無限なる心の中にあり、意識が人間であります。 その意識は 人間の心の中に持ち続けている観念、あるいは信念によって、決定される。

 

わたしどもの、形体がやがては、老い死滅するのは、自分が神の霊とは別のものであると  信じ込んでいるためです。

 

形体は 常に神の霊とは 別のものであると信じ込まれているためです。 神の霊こそ、すべてであり、形体は常に、神の愛が 刻一刻と神自身の心を 表現しつつあると 分かれば、霊よりうまれるもの、霊より来るものは霊であることがわかるでしょう。

 

このような意識を通して、次に啓示される偉大なる真理は、

 

人間一人ひとりが神の心の産物である、

 

したがって、人間一人ひとりが 神の心の中で完全なる想念として描かれている、ということであります。

 

だから、わたしどもは、何も自分のことを とやかく考え煩う必要はない。 わたしどもは、すでに神の完全なる心の中で、完全なる存在として、完全に考えられ、描かれているのです。 こう悟ることによって、

 

私たちは 神の心に触れ、神が私たちのために、既に描かれたことを 私たちも再び、描くことができるのです。

 

これがイエスのいわゆる、’再び、生まれる’ ということです。

 

これは沈黙がもたらす偉大なる贈り物です。

 

なぜなら、神の心に接することによって、私たちは神心で考えることができ、間違って思い込んでいる イメージの 自分 ではなく、実相の自分自身 を知ることができるからです

 

私たちは正念によって、神の心に接し、真のすがたを表すことができる。 しかし、イメージが完全であろうと、不完全であろうと、その本質は 完全なる神の力、原質、智慧である。 私どもが変えたいと望むのは イメージの実相ではなく、実相が摂っている姿(イメージ)なのです。

 

(*2) それは、心を 再び新しくすることにより、または、不完全な考え方より、完全な考え方への切り替え、 人間的な考え方より、神の考え方に切り替えることによってできます。 沈黙、即ち、我の心を鎮めることが、如何に等しく重大であることか。

 

我の心が静まったとき、初めてわたしたちは、義(正しく使うこと、righteousness=right-use-ness) の太陽が癒しをその翼にもたらして昇る~ことを知るでしょう。

 

あたかも、日光が暗黒に満ちた部屋に充ち溢れるように、神の心が意識の中に、充ち溢れます。 また、我の心の中に、神の普遍心が滲透していくのは、ちょうど、締め切られていた 室内の長く淀み  穢れていた空気の中に、莫大な量の空気が滲透していくようなものです。

“(60~66) ****************************************** *1) でエミール師が語っているところは、今まで 出てきた言葉で言えば唯心所現 の法則と 言い換えることができると思う。

 

意識によって、具象化し、表現される ということは、私たちが何を思うか、何をしたいか、何を ビジョン化するかなどの、心の意識行為によって、現実にそれらの状況が造りだされるという法則だ。 *2)

 

”私たちは正念によって、神の心に接し、真のすがたを表すことができる。 しかし、イメージが完全であろうと、不完全であろうと、”その本質は 完全なる神の力、原質、智慧で ある。

 

私どもが変えたいと望むのは イメージの実相ではなく、実相が摂っている姿(イメージ)なので す。

 

”という師の言葉にイメージの実相 と、この現実世界に表れている、状態、つまり、 実相が表すイメージの違いが語られているように思う。 

 

私たちが留意するべき点は、イメージ(像)の中での曖昧な実相観念ではなく、 神の心に即した我々本来の姿であるとエミール大師はいう。

 

言い換えれば、実相をベースにして、 それが 顕現するところの イメージを心に置くということだろう。 それは、私たちのイメージする力の強弱の問題ではなく、

 

正念、つまり、本気でそれを求めたときに、 必然的に気が付くものであり、すべての人にすでに備わっているからこそ、現実に顕現される タイミングを待っているだけといえるだろう。

 

参考) ヒマラヤ聖者の生活探求―自由自在への道 全5巻 S54年6月5日第五版 ベアード・T・スポールディング著 仲里誠吉訳 霞が関書房

 

 

 

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