弁栄聖者は、宇宙の中心は、一大心霊とされ、私たちも鏡の如く磨くとき、「自己の本心すなわち一大観念にて、一体不二、宇宙一貫して無碍なることを観見する
「(無辺光)」という
ひらたくいえば、この宇宙は一つの光明遍照の珠みたいなものであり、私たちの心を磨き、内部神性を開発するとき、私たちも一大心霊と等しく「無辺光」を放ち、
全てが自分の中にあることが自覚することができる。
この自己を弁栄聖者は「光明遍照中の自己」「大円鏡中の自己」ともよばれている。
私たちの人生とは、
内部神性を発掘して、自身が一大光明になる道であり、自分自身が「神の分身」であることを思い出す旅路である。
それがどんな道であれ、
その道は「一大心霊」たる神(光)につながっている。
あなた達よ、恐れず、憂えず、悲しまずに進み行け、必ず神の御業があらわれる。
そしてその神の御業は、あなた達の実相の中に既にあるのである。
あなた達が日本人であるならば、あなた達はすでに古代から、日本人は自分自身を(命)と称んでいたではないか。
泥中の中にあっても蓮華はすでに咲いているのである。
一心法界三昧
弁栄上人は24歳のとき筑波山に二ヶ月こもって日夜念仏をとなえる修行をおこなった。米麦そば粉だけで飢えをしのぎ口で念仏を唱え、阿弥陀仏の姿を心に思い浮かべ礼拝すること毎日、ついに一心法界三昧を会得した。
弁栄上人の説明によると「一心法界三昧」とはこの宇宙に存在する森羅万象のすべてが自分の心の中にある事を悟ることだという。自己と他人の区別、自己と環境、さらに時間と空間の制限を越えた世界、二元性を越えた法界と自己の心が溶け合って一つになったのが法界心である。その法界心そのものになったというのである。ひとつだから自他の区別はなく、そこには内側も外側も中間もないのである。
我々がなぜ心の中に宇宙のすべてが存在する事が見えないかというと自我の観念に深く覆われているからだと言う。我々は肉体や思考や感情を自己と思い込んでいるのである。今まで自分の外側に見ていた森羅万象が内も外も区別がなくなり、あるがままに映し出されていることを大円鏡智と呼ぶ。
弁栄上人は明治の人であり、その教えは仏教用語に満ちており、我々凡人には難解である。
『予,かつて華厳の法界観門に由って,一心法界三昧を修す。行住坐臥つねに観心止まず。ある時は行くに天地万物の一切の現象は悉く一心法界の中に隠没し,宇宙を尽くして唯一大観念のみなるを観ず。また一日道灌山に座禅して文殊般若をよみ,心如虚空無所在の文に至って,心虚空界に周遍して,内に非ず,外に非ず,中間にあらず,法界一相に真理を会してのち,心常に法界に一にせるは是非平生の心念とはなれり。之すなわち宗教の信仰に所謂,光明遍照中の自己なり。大円鏡中の自己なりと信ず。』弁栄上人「無辺光」