十章 質問に答える
───私がこれまでに会った人の中には、自分はスピリチュアリストであると言いながら相変わらず何かの既成宗教に属している人がいます。スピリチュアリズムを信じるようになったら、それまでの宗教は捨てるべきではないでしょうか。
私はそうした名称には煩わされません。実はこの私自身が果たしてスピリチュアリストなのかどうか定かでないのです。スピリチュアリストであるとの認証を頂いたわけではないからです。ご自分のことをどうお呼びになるかは問題ではありません。大切なのは毎日をどう生きるかです。
いったい宗教とは何なのでしょう。教会や礼拝堂や寺院へ通うことでしょうか。人間のこしらえた教義を受け入れることでしょうか。私はローマカトリック教徒ですとか、プロテスタントですとか、仏教徒ですとか、ユダヤ教徒ですと名乗ることでしょうか。
宗教とは宇宙の大霊すなわち神の御心に一歩でも近づくことになるような生き方をすることです。あなたの行為の中に神の御心が表現されることです。要するに宗教とは人のためになる行いをすることです。
もしも霊界との交信の事実を信じてその恩恵を受けている人が相変わらず従来の神学的教義にこだわり続けている時は、その人のことを気の毒に思ってあげることです。密かに祈りの気持ちを送ってあげることです。その人はまだ梯子段の下の方、せいぜい中途までしか上がっていないからです。
精神が従順で感化されやすく、与えられたものは何でも吸収していく幼少時に教え込まれた教義を棄てることは容易ではありません。それがいつしか潜在意識のタテ糸となりヨコ糸となって、その深層を形成します。そうなると、みずからその誤りに気付いて取り除くということは、殆ど不可能に近いと思わないといけません。
ですから、我慢してあげることです。われわれだって、かつては間違った考えを抱いていたのを、その後の叡智の発達のお陰で棄て去ったことがあるではありませんか。所詮人間の誰一人として完全の極致まで到達した人はいないのです。それには永遠の時を必要とするのです。
我慢してあげるのです。手助けをしてあげるのです。議論しあってはいけません。議論からは何も生まれません。
詩人(※)が言っております───〝議論しても、入って来たのと同じドアから出て行くだけである〟と。(※英国の詩人フィッツジェラルド Edward Fitzgerald)
自分の宗教の教義より先が見えない人のことは辛抱強く見守ってあげなさい。時が立てばあなたの場合もそうであったように、きっと機が熟します。
シルバーバーチ10巻10章
ご愛読、有り難うございます。
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