チベットのことわざに「苦しみは喜びの深さを知るためにある」というものがありますが、聖書の中で「苦難」の意味について触れている箇所があります。
コリントの信徒への手紙二 1章4節に「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」と使徒パウロは書き記しています。
悲しみや痛みを経験しなければ、悲しみ痛む人の苦しみを真に知ることは出来ません。
「苦難」という言葉の聖書の本来的な意味は、「傍らに呼ぶ」という意味があります。苦しみや悲しみの深さの故に慰めの言葉が見つからないことがありますが、傍らに誰から添うているだけで癒されることがあります。
そして「傍らに呼ぶ」という更なる意味は、
キリストが内側から支えてくれることをも意味しております。
苦しみの深さの意味を知る人は、内なる慰めの深さを知り、
その慰めをもって慰めを必要としている人々のために励ましを与える慰めの器として豊かに用いられることでしょう。
「苦しみは喜びの深さを知るためにある」
ということわざは言い得ている言葉です。