悲しみは魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚なる意味をもつものです。悲しみはそれが魂の琴線に触れた時、いちばんよく魂の目を覚まさせるものです。
魂は肉体の奥深く埋もれているために、それを目覚めさせるためにはよほどの体験を必要とします。
悲しみ、無念、病気、不幸等は地上の人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです。
もしもその教訓が簡単に学べるものであれば、それはたいした価値のないものということになります。
悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ学べるものだからこそ、それを学ぶだけの準備の出来ていた魂にとって深甚なる価値があるといえるのです。
繰り返し述べてきたことですが、
真理は魂がそれを悟る準備の出来た時に初めて学べるのです。
霊的な受け入れ態勢が出来るまでは決して真理に目覚めることはありません。
こちらからいくら援助の手を差しのべても、それを受け入れる準備の出来ていない者は救われません。
霊的知識を理解する時機を決するのは魂の発達程度です。
魂の進化の程度が決するのです。肉体に包まれているあなた方人間が物質的見地から宇宙を眺め、日常の出来事を物的モノサシで測り、考え、評価するのは無理もないことですが、それは長い物語の中のほんの些細なエピソード(小話)にすぎません。
魂の偉大さは苦難を乗り切る時にこそ発揮されます。失意も落胆も魂のこやしです。
魂がその秘められた力を発揮するにはいかなるこやしを摂取すればよいかを知る必要があります。それが地上生活の目的なのです。
失意のどん底にある時は、もう全てが終わったかの感じを抱くものですが、
実はそこから始まるのです。
あなた方にはまだまだ発揮されていない力ーーそれまで発揮されたものより遥かにおおきな力が宿されているのです。それは楽な人生の中では決して発揮されません。
苦難と困難の中にあってこそ発揮されるのです。金塊もハンマーで砕かないと、その純金の姿を拝むことができないように、
魂という純金も、悲しみや苦しみの試練を経ないと出てこないのです。
それ以外に方法がないのです。ほかにもあると言う人がもしいるとしても、
私はしりません。
三章 なぜ苦しみがあるのか55p
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備考、
深甚(しんじん)非常に深いこと、ひととおりではないこと、