〝真理〟は必ずしもすべての人に受け入れられるものではないことを説いて───
真理は魂の方にそれを受け入れる用意ができるまでは真理として受け入れられることができません。
これは真理のあらゆる側面について言えることです。
真理とは無限性をもつものですから、その全体を理解するには永遠の時を要します。
それがまた無限の過程なのです。
受け入れる用意のできていない人に真理を押しつけることはできません。
そこには必ず混乱・論争・討論・議論といったものが生じます。が、それにもそれなりの意義があります。
その混乱の中から、受け入れる用意のある人にとっての真理が出てきます。
その用意というのは霊的進化の程度、発達段階によって決まります。
それは各自が自分で決めていくというのが宿命です。
もしも私がある人たちにとっての真理を説き、それを聞いてあなたが
〝私には信じられません〟
と正直におっしゃっても、私は少しも不愉快には思いません。
あなたへの愛の気持ちはそれによっていささかも減りません。
なぜなら、あなたはこの地上においてあなたなりの理性、あなたなりの良識を使い、納得しないものは拒絶することで自己開発するようになっているという理解が私にあるからです。
その最終的な裁定者として私が敬意を表しているところの理性によってあなたの賛同を得ることができなければ、
それは私が役に立たなかったことを意味します。
───私もこうした霊的真理を説きたいと思いながら、今、同じ問題に逢着しているように思います。
難しさを痛感しております。
教会で説くにしてもサークルで説くにしても、これが真理なのだ、これ以外にはないのだと信じて話します。
その際、これが自分の信じていることであると述べて、
後は(押しつけがましいことは)何も言わない方がよろしいのでしょうか。
そうです。
後は各自の判断に任せることです。
───拒絶されても構わずにおくということですね。
真理というものは拒絶されたからといって少しも損なわれるものではありません。
そういう人は受け入れる用意ができていないのです。
ですから、待ってあげるのです。
そして霊性の火花を煽ってみる程度に留めるのです。
それ以上のことはできないのです。それで何の反応もなければ、
その人のことを気の毒に思ってあげないといけません。
シルバーバーチの霊訓 11
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