1862年4月19日、ポルドーにて。
「私を体に結びつけていた鎖が切れたらしく、前よりも辛さは薄らいだように感じられる。とうとう自由になったわけだが、罪滅ぼしをしなくちゃいけないのは合点がいかない。でも、これ以上、苦しみを長引かせたくなかったら、無駄に使った時間を埋め合わせなくてはいけないわけだ。誠実に悔い改めさえすれば、神がそれを見て私を許してくれるに違いない。
私の為に祈ってください。どうか、お願いします。
友人達よ、私は「自分さえよければいい」と思って生きてきた。そして今、贖罪をし、苦しんでいる。私が怪我をしたトゲで、あなた方もまた怪我をしないように、神の恩寵を祈るばかりだ。主に向かう大道を、どうか歩いていってください。そして、私の為に祈ってください。
ああ、私は、
神が(貸して)くださった財産を自分の為だけに使ってしまった。何ということだろう!
動物的本能に従う為に、神が与えてくださった知性とよき感情を犠牲にした者は、まさしく動物と同じで、厳しい扱いを受けても文句を言えない。
人間は、自分に(委託)されて財産を、節度を持って使わなければならないのだ。
人間は、死後に自分の持っている永遠の観点から生きなければならない。したがつて、物質的な享楽への執着から離れる必要がある。食事は活力を得る為であるし、贅沢は、社会的地位に見合った程度に留めるべきなのだ。生まれつき備わっている嗜好や傾向性も、理性によって統御されなければならない。
そうでなければ、浄化されるどころか、ますます物質的になってしまうからだ。欲望は紐のように人間を締めつけるものだ。欲望を募らせて、その紐をさらにきつく締めてはいけない。
生きるのはよいが、遊び人として生きてはならない。
霊界に還った時に、それがどれほど高くつくか、地上の人間達には決して分からないだろう。
地上を去って神の前に出る時は、素っ裸にされて何一つ隠すことは出来ない。
地上で何をしたかが、全て明るみに出されるのだ。
だから、つまらない欲望に振り回されることなく、
ひたすらに善行を積むことをお勧めする。
思いやりと愛に満ちて生きてほしい。
そうすれば、そちらからこちらに来る時も楽に境界を越えることが出来るはずだ」
霊媒の指導霊からのメッーセージ:
「この霊は、正しい道に戻りつつあります。
というのも、悔いあら為を行っているだけでなく、
自分が辿った危険な道を辿らないようにと、あとから来る者達に教えているからです。間違いを認めること自体、既に大したことですが、他者に奉仕することで、
さらに善に向かって一歩進むことが出来ればもっとよいのです。
だから、この霊は、幸福とまでは言えないけれど、もう苦しんではいません。彼は悔い改めを行いました。あとは、もう一度、地上で転生し直して、償いを果たしさえするばよいのです。ただし、そこに至るまでには、まだ経験しなければならないことが沢山あるでしょう。
「自らの霊性のことなど考えず、ひたすら官能的な生活を送り、やることといったら新たな快楽を発見するだけ」
と
いった生活を送った人間が、霊界でどのような状況に置かれるか、あなた方には分かったでしょうか?
物質的な墓の彼方まで付きまとい、死んだからといってすぐ欲望が消えるわけではないのです、
地上にいた時と全く同様に、
自分の欲望を満足させる手段だけを探し続けるのです。
霊的な糧を探したことのない彼らの魂は、霊的な糧しかない霊界にあって、果てのない砂漠の中を彷徨う人間と同じように、完全な空虚の中を、あてもなく、希望もなく彷徨い続けることになるのです。
肉体を喜ばせることばかりして、精神的なことに一切関わることがなかったので、当然のことながら、
死後も、霊が本来果たすべき仕事には全く無縁となります。肉体を満足させることは当然出来ず、かといって、どのように霊を満足させればよいかも分からないのです。
したがって、絶望的な退屈に陥り、それがいつ果てるとも知れません。
そこで、
それくらいなら、むしろ消滅した方がよいと思うのです。
ところが、霊を消滅させることは出来ません。
肉体は殺すことは可能ですが、霊を殺すことは出来ないからです。
したがって、彼らは、そうした状況に飽き果てて、ついに神の方に目を向けることを決心しるまでは、そのような精神な拷問の中に身を置き続ける他ないのです」
霊との対話
アラン・カルデック
人は死んでも、霊魂不滅。アラン・カルデックの霊との対話
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