「 現代の雨ニモマケズ」
見返リナド考エズ
「ノルマ」デモ
義務デモナク
支エテクレタ
人の温カサニ感謝
恩返シデキル人ニ
ワタシワナリタイ
尾畠春夫
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最高の教えを実践している
霊界からの情報をしきりに求めながら、それを他人のために使わない人に、私たち霊はうんざりさせられます。
そういう人は、霊が言ったことなら何でも “高級な教え” として有難がります。 が、一人一人が魂の成長とともに、神の法則を理解していくのですから、教えそのものに高級も低級もありません。
もし、その人たちが自分が得た知識を活かして、地上をより良い世界、つまり食べ物に飢える人も喉を渇かす人もなく、神の光がふんだんに降り注ぐ家に住めるように何かをすれば、それこそ最高の教えを実践していることになるでしょう。
シルバーバーチ霊訓4
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雨にも負けず 風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫な体をもち
欲はなく 決して怒らず いつも静かに笑ている 一日玄米四合と 味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを 自分を勘定にいれず よく見聞きし解り
そして忘れず
野原の松の林の蔭の ちいさな藁葺きの小屋にいて
東に病気の子供あらば 行って看病してやり
西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あらば行って怖がらなくて言いといい
北に喧嘩や訴訟があればつまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにデクノボウと呼ばれ 褒められもせず
苦にもされず そうゆうものに私はなりたい。
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「雨ニモマケズ」は実在していた 斉藤宗次郎
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1977年、斉藤宗次郎は岩手県花巻の禅宗の寺の三男として生まれました。彼はやがて小学校の先生となり、一時、国粋主義に傾くのですが、やがてふとしたきっかけで、聖書を読むようになりました。1900年、彼は洗礼を受けてクリスチャンなりました。
花巻で第一号のクリスチャです。しかし、これはキリスト教がまだ「阿蘇教」「国賊」などと呼ばれて、人々から激しい迫害を受けている時代のことです。
洗礼を受けたその日から、彼に対する迫害が強くなりました。町を歩いていると「ヤソ、ヤソ」とあざけられ、何度も石を投げられました。それでも彼は神を信じた喜びにあふれて、信仰を貫いていました。しかし、いわれのない中傷が相次ぎ、ついに彼は小学校の教職を辞めなければならないはめになってしまいます。また迫害は彼にだけにとどまらず、家庭にまで及んでいきました。長女の愛子ちゃんはある日、国粋主義思想が高まる中、ヤソの子供と言われて腹を蹴られ、腹膜炎を起こしてしまいます。数か月後、彼女はわずか九歳という若さで天国に帰って行きました。
葬儀の席上、讃美歌が歌われ、天国の希望のなか平安に彼女を見送りましたが、愛する子をこのようないわれなきことで失った斉藤宗次郎の心情は、察するに余りあります。彼はその後、新聞配達をして生計をたてるようになります。
朝三時に起き汽車が着くたびに何度も駅に新聞を取りに行き、雨の日も風の日も、大風呂敷を背負って駆け足で配達するという生活でした。新聞配達が終わった後に宮沢賢治が勤めていた花巻農学校に立ち寄り、賢治と話し合うようになりました。
斉藤宗次郎の新聞配達の方法はとても変わっていました。重い新聞紙を抱え、十歩進んでは神を賛美するという調子でした。ポケットにはあめ玉をたくさん入れていて、子供たちに会うとあめ玉をあげる。病気の人がいると、その病床まで行って慰め、小銭を置いてまた配達に戻る。そのようにして花巻の町全体を毎日走り回ったのです。
宗次郎と賢治は一緒にクラッシク音楽を聴いたり、文学の話をする密接な関係でした。宗次郎のこのような生き方が賢治の目にはどのように映っていたのでしょうか?
やがて1926年(大正15年)、宗次郎は住み慣れた故郷花巻を離れ、東京に移る日がやって来ました。
「だれも見送りに来てくれないだろう」と思って駅に行きました。
ところが、そこには名残を惜しむ見送りの町の人々があふれていたのです。お寺の大勢の和尚さんや学校の先生たちも来ていました。昔は迫害した人々も今はすっかり尊敬と親愛の情に満ちた顔で見送りに来てくれたのです。
宗次郎がふだんからしてくれていたことを、彼らは見ていたのです。そして感謝を表しに来ていたのです。
身動きできないほどの多くの人々が集まったのです。
見送る人々の中に、宮沢賢治の姿もありました。宗次郎が東京に着いてから最初に手紙をくれたのは賢治でした。
その5年後賢治は「雨ニモマケズ」の詩を手帳に書きましたこの詩は「みんなにでくのぼうと呼ばれ、ほめられもせず苦にもされず。 そういう者に私はなりたい」という言葉で締めくくられています。
宮沢賢治は、斉藤宗次郎という人の生き方に接し、深い共感を覚えてこの詩を書いたのではないでしょうか。
斎藤宗次郎
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メモ、
賢治の、雨ニモマケズの最後の文章のそうゆうものに私はなりたい。
という、
そうゆうものとは、人の為、人助けの為。(サービス)
褒められもせず苦にもされず、賞賛を求めない無私の愛
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ラベルには用心しなければなりません
ラベルには用心しなければなりません。 なぜなら、そのうちそのラベルに象徴されていた中身に代わって、そのラベルそのものが大切にされるようになり、ついにはラベルだけを崇拝し、真理を忘れてしまうからです。
大切なのは真理です。 ラベルはどうでもよろしい。
シルバーバーチ霊訓3
ラベルは関係ありません