真理との邂逅 高級霊のメッセージ   

  「わたしは生命である」神の生命がわたしの中で生き給うが故にわたしは生きている。生命は神であり神は生命である。 心身の神癒 第6話6 *****あらゆることのうち最も重大なのは、神のみが生きてい給うのであり、その神が今の今御自身を顕現しつつあるのを認めることである。私の中に常に留まっておられるのは父であり、父が父御自身の業をしていらっしゃるのである。

「あなたの考えは霊に見抜かれている」

 

     

 

いまのような人間の考えの裏側には霊の考えがあって、それによって操られるなんてことは普通の人にはなかなかわかりにくい。 

 

これは普通われわれは体が働くのは目に見える筋肉の働きで働いていると思いがちだが、本当に体を動かしているのは目に見えない多くの神経繊維なのだという関係にそっくりであろう。

 

霊とのつき合いを重ねるにつれ、私は後には街に散歩に出たときに自分の周囲に霊がついてきているのにも気ずくようになった。そんなときには、霊は私の買い物の選択にまで口出しするほどであった。

 

私は霊に「街の様子や人々の話声が聞こえるか」と試しにたずねてみたりするほどになった。

 

しかし、最初に「お前にそんな考えをさせているのはこっちだ」と霊にいわれたときには、やはりびっくりしたものであった。

 

だが、そんな体験を経るにつれ、私は霊の考えと自分の考が区別できるようにもなった。これを度々いう夢の例と比べていえば、どんな夢が自分の夢で、どんな夢が霊が起こすのかが区別できるようになったのと同じである。

 

そして、このことから見ても霊の考えが人間の気ずかないうちにわれわれの中に入り込んでいるのかがわかるわけだ。

 

そんな区別ができるようになった最初の体験を私は日記にも書いている。

日記の日付をめっくてみると1747年8月で、そこに私は大体こんなことを書いている。

 

「朝、考えごとをしていた。自分ではそのときは霊はやってきていないと思っていたが突然霊が話しかけてきたので驚いた。

 

彼はいった。

 

いま自分もお前と同じことを考えている」。

 

私は驚いて自分が考えていたことや自分の心の中を覗いてみた。

そして彼とのやり取りと自分の考えの中を比べてみた。

 

するとそこには自分の考えと彼の考えがまじり合っていて、彼のいうこともある程度本当だと気づいた。

 

私は少ししてやってきているのは彼だけなのか、それともほかにもやってきている霊がいるのか知りたくなった。

 

そしてわかったことはある者は近くに、ある者は遠くにというように私との距離は違うとはいえ、多くの霊がいることだった。

 

彼らはみな私に話しかけたり、私の言葉に返事をしたりするのでそれがわかった。

 

そのうえ彼らのレベルも雑多で、彼らはそれぞれのレベルと性質に応じてそれぞれの仕方で私とやりとりするのであった。

 

また、彼らのいる場所も見えたが、善霊は陽光の降り注ぐ森や気持ちよさそうな牧場のようなところにいるのに、

 

悪霊のほうはうす暗い場所とか、水のくさった池などにいるのであった・・・・・・」

 

 

     続スウェデンボルグの霊界からの手記 

           今村光一抄訳・編

 

 

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参考、

 

 

                 人間は霊に常に指導されている  

 

 

真理普及の仕事において人間が頻りに己の存在価値を求めんとすることに、われらは奇

異の念を覚える。一体人間はどうありたいと望むのであろうか。背後から密かに操作す

ることをせずに、直接五感に訴える手段にて精神に働きかけ、思想を形成すれば良いとでも言うのであろうか。奇術師が見事な手さばきで観客を喜ばせる如くに、目に見える不可思議な手段に訴える方がより気高く有効であるとでも言うのであろうか。 われらが厳然たる独立性を持つ存在であることを示すに足るだけのものは既に十分に提供したつもりである。われらの働きを小さく見くびることはいい加減にして、われらが汝の精神に働きかける影響を素直に受け入れてほしい。

われらはその精神の中の素材を利用するからこそ、印象が強くなる。

われらの仕事にとって不必要なものも取り除かれるのではないかとの心配は無用である。 ───そんな懸念はもっておりませんが、

ただ私も自分の個性だけは確信しておきたいという気持ちはあります。

 

また偉大な思想家の中にはもっと広い観点から神の啓示を完全に否定している者が大勢おります。

 

彼らが言うには、人間は自分に理解し得ないものを受け取るわけがないし、自分から考え出した筈もない内容の啓示を外部から受けて、それが精神の中に住み込むことは有り得ないというのですが・・・・・・   

 

そのことに関しては既に述べてある。

 

それが如何に誤った結論であるかは、いずれ時が経てば汝にも判るであろう。

 

汝はわれらの仕事を何やら個性を持たぬ自発性なき機械の如く考えたがるようであるが、それに対してわれらは断固として異議を唱えるものである。

 

第一、自分の行為をすべて自分の判断のもとに行っていると思うこと自体が誤りでる。

 

汝には単独的行為などというものは何一つない。常にわれらによって導かれ影響を受けていると思うがよい。

 

                                                    

                                   世界心霊宝典ⅰ霊訓 二十四節

 

 

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 参考、

 

 

人は霊からのささやき」を「自分の心」と思う  

 

 

感応してくるとはどういうことかというと、私に通じまして「そうだ、もっと憎め憎

め。もっとあいつに仕返しをしてやれ」というささやきをするんです。「ささやきをす

るなんて、私はそんなもの聞いたことない」って言いますけど、人間というのは面白いものでしてね。自分でものを考えますでしょう。それから感情を持ちますでしょう。

「嬉しいな」「悲しいな」「今日は良い気分だな」とか「今日は憂鬱な気分だな」「今日はあそこにちょっと行ってみようかしら」とか、「あの人嫌な人だ」「あれが欲しいな」とか思いますでしょう。全部それは自分の心、自分自身が持った感情だと思っているでしょう。

 

とんでもないんです。

 

電波を出しておりますから、その電波に合った、波長に合った霊からの通信が来ておりまして、あたかも自分の気持ち、考えのように思ってしまうんです。

 

例えば今日皆さんはおいでになったでしょう。何か話を聞きに行こうかなと思われたでしょう。それは確かに自分の決断でおいでになったんですよ。ですけどその時にね、「行ってみようかなと思った時に電波を出しておりますから、皆さんの後ろにいる霊がですね、「行ってごらんよ。さあ準備をして行きなさい。どうしても今日行きなさい」と言うと、「どうしても今日行ってみよう」っていう気持ちになっちゃうんですね。こういうふうにですね、我々の考え、我々の気持ちは全部自分の心だと思っていますけども、霊からの影響を受けまして、それが強化・増幅されているんです。  

反対に、行こうかと思ったら、行きたくなくなったりもさせます。それは行くことを妨害しようとする霊からのテレパシーです。本人はそれを自分の心のように思い、「じゃ今日は止めとこう」と思って行くのを止めます。

このように霊には人の心を変えさせる働きもあるんです。

このことを今の科学は知らない。

多少テレパシーとか何とかということで分かってきた。  

テレパシーの実在は今科学的に証明されているんですよ。超心理学といわれるもので

科学的にテレパシーはもう証明されでいるんです。心と心は通じるということが。  

 

ところが、人間のいろいろなものの考え方、心の持ち方は、

 

霊からの影響が日常たくさんあるんだということがまだ分かっていないんです。

 

 

    

           

 

 

 

      宮澤賢治とでくのぼうの生き方

          桑原啓善 でくのぼう出版 1995年刊

 

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参考、

 

真剣に真理を求め続ければ、環境が変わります。環境が変わるのは、成長の証なのです。どうか、与えられた環境に相応した、真理の求め方をしてください。

 

 

 私的に、驚愕の文章です。自分自身を振り返ってみて・・・。

 

     ただただ、神の恩寵に感謝するわたしです・・・。

                                                                                                            蒼氓。

 

 

 

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