兄は日本の敗戦の翌日、すなわち1945年8月16日に、学徒動員中にトラック事故で15歳で死亡している。
疎開先のことで、家は山を4,5分ばかり登った位置にあり、毎日陸軍のトラックが山すそまで迎えに来る。敗戦の翌日とはいえ、実際にはまだ勝ったのか負けたのか定かでないので、軍はその日もいつも通りの作業を行うことにした。
兄はいつもただ弁当だけを持参する毎日だったが、その日の朝、母は何を勘違いしたのか、兄を見送ったあとで、ふと「弁当を持たせるのを忘れた!」と錯覚し、大急ぎでおにぎりをこしらえて、兄を追って山を駆け下りた。下りきると、すでにそこにトラックが来ていて、ちょうど兄が後尾から大股で乗り込んだところであった。
駆け寄った母が、「ヒデちゃん、ホラ、弁当!」と差し出すと、兄は「あるよ」と言って、それを差し上げて見せた。母は自分の勘違いだったことに気づいたが、食べ盛りのころなので、「二つくらい食べれるでしょ。せっかくだから持っていきなさいよ」と言って差し出した。が兄はまわりの級友たちの手前、恥ずかしく思ったのだろう。「いいよ」と言って受け取ろうとしない。
「まあ、持っていきなさいよ」
「いいっていったら」
そう言い合っているうちにトラックが出発した。母は仕方なく両手で弁当をもったまま、兄を見送った。それが今生の見おさめになるとも知らないで・・・。
事故の報が入ったのはそれから15分ばかりのちだった。ほとんど即死状態だったという。
それからほぼ、10年の歳月が流れて、話は1954年のことになる。私の生涯を決定づけることになる間部詮敦(まなべ・あきあつ)という霊能者が福山市をはじめて訪れた時、うわさを耳にした母が伺った。座敷で先生と挨拶するとすぐに、先生が、
「今ここに一人の青年が見えておりますが、何か手に持っていますね。ほう、弁当だと言っています。
お母さんには申し訳ないことをしたと言っておられますよ」とおっしゃた。母はその場に泣き崩れた。
間違いなくわが子であることを確信しただけでなく、別れのシーンの自分の最後の姿が、兄の目に焼きついていたことを知ったからである。母にとってこれにまさる「証拠」はなく、それが死後の存続を確信する決定的な体験となった。そして、間接的ながら、それが私にも決定的な影響を及ぼした。
近藤千雄さん。
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近藤千雄さんと、モーリス・バーバネル。↓