真理との邂逅 高級霊のメッセージ   

 「わたしは生命である」神の生命がわたしの中で生き給うが故にわたしは生きている。生命は神であり神は生命である。 心身の神癒 第6話6 *****あらゆることのうち最も重大なのは、神のみが生きてい給うのであり、その神が今の今御自身を顕現しつつあるのを認めることである。私の中に常に留まっておられるのは父であり、父が父御自身の業をしていらっしゃるのである。この事も又あなたたちは悟らなければならない。心身の神癒 第9話3

無形の神は、皆さんが有形の神を超越したとき、初めて心に抱くことができるのです。

 

初心者には偶像礼拝が必要

 

同様に、ここで皆さんの中に座っているシュリ・ラーマムールティも、先日、真剣な信仰と苦悶の中で「スワミ」と叫びました。妻の衣服に火が点いて、痛みにもだえ苦しんでいたのです。そして、とてもひどいパニック状態に陥り、私の名前を呼ぶことができなかったのです。しかし、私はその叫び声を聞きました。私は急いでその場に駆けつけました。それは、皆さんからすれば400マイル〔643.6キロ〕も離れた場所でしたが、取り返しがつかない事態になる前に、私はその火を揉み消しました。

 

シャンカラは子ども時代に偶像を礼拝しており、サグナ スワルーパ〔属性(グナ)を有した姿、有形の神〕の価値を知っていました。後年になっても、シャンカラは大多数の人にサグナ アーラーダナ〔属性(グナ)を有するものを崇めること、偶像礼拝〕を勧めました。

 

幼い子どもは石版と黒板の助けを借りて教わらなくてはなりません。石版には絵が描かれます。

 

寺院や、神仏の像や、絵や写真は、霊的成長における子どもたちのための石版や黒板です。

 

しかし、おもちゃの象で遊んでいても、本物の象と触れ合う体験を引き出すことはできません。

 

無形の神は、皆さんが有形の神を超越したとき、初めて心に抱くことができるのです。

 

 

 

シャンカラの不二一元論は究極の真理

 

浮世を(啓発する権威を手に入れるために)放棄することを考えた時、シャンカラは順序として、まず母親の承認を得なければならないと感じました。そこで、シャンカラは、ある日、自宅近くのプールナー河で沐浴している最中に、鰐(わに)が足に食い付いたと叫んだのでした。それは真実でした。なぜなら、鰐というのは、「ガジェーンドラモークシャ」の物語にあるように、

という名で呼ばれるサムサーラ(世俗の生活)、つまり、感覚の欲望にすぎないからです。母親が河の土手に駆けつけた時、シャンカラは、自分が出家(サンニャーサ)して、修行僧(サンニャースィン)になるのであれば、鰐は自分を離すだろうと言いました! これも真実です。なぜなら、捨離(ティヤーガ)、すなわち無執着、世俗の関係を断つことは、自らを束縛から救い出す方法だからです。当惑した母親はそれに同意し、少年シャンカラはグル〔導師〕を求めて、また、グルによる解脱の奥義を求めて、生家を後にしました。 シャンカラは32年しか生きませんでしたが、その間、礼拝に関するさまざまな学派を純化して統合し、一つの哲学原理、すなわちアドワイタ(不二一元論)の総体的な管理の下に置きました。

ヴェーダのマハーヴァーキャ(至高の真理に関する大格言)が、その真の意味を伴って、再び万人のハートに響き始めました。

 

「アハム ブラフマースミー」(我は神なり)、「タットワマスィ」(汝はそれなり)、「プラグニャーナム ブラフマー」(至高の叡智は神なり)――すべては、単純に、説得力のある論理で、甘美で魅惑的な韻文で、説かれました。

 

シャンカラのアドワイタは究極の真理であり、それゆえ、科学の発見や知性の飛躍によっても揺らぐことなく、確証されるのみなのです。アドワイタは、物質とエネルギーの一体性、時間と空間の一体性、そして、マーヤー〔迷妄、幻〕のベールという、実のところ根本原理の活動であるものを通して垣間見られる、ブラフマンと天地万物の一体性を述べています。 シャンカラは、アドワイタには、人間の心(マインド)から一切のエゴの痕跡とあらゆる二元的な考えを取り除く、熱烈な霊性修行(サーダナ)が要されることを知っていました。それゆえ、シャンカラは、人と宇宙の本質との真の一体性への気づきという夜明けのための予備的な修行として、ヨーガとバクティとカルマの規則を教えました。シャンカラの言うところによれば、これらは知性を照らし、情動を清め、ハートを浄化するのです。

 

アドワイタとは、あらゆるもの、あらゆる場所の内に存在する神に、完全に気づいていることです。

シャンカラは、サーダナの初めの第一歩として、サット・サンガ(善き仲間)を勧めました。賢者や善人の仲間になれば、無執着が生じ、静寂や孤独を好むようになります。

これはモーハ〔妄想、愛執〕の消滅を促しますが、アルジュナによれば、「ギーター」を聞いた果報がそれでした。モーハが消滅すれば、人は、タットとトワム、それとこれの真実に、梵我一如に、しっかりと落ち着きます。そうです、その同一性を悟ることが、解脱(ムクティ)に到るということなのです。

 

翻訳:サティヤ・サイ出版協会 出典:Sathya Sai Speaks Vol.3 C12

 

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