苦難と悲しみ (苦労の意味) (障害や困難は大きな成長の機会)
障害や困難の克服が、霊的な成長を促進するということは本当です。重い精神病や肉体的な欠陥などのように深刻な問題を持つことは進歩のしるしであって、退歩を意味してはいません。
私の見解では、こうした重荷を背負うことを選んだ人は、大変に強い魂の持ち主です。最も大きな成長の機会が与えられるからです。
もし、普通の人生を学校での一年間だとしたら、このような大変な人生は大学院の一年に相当します。
退行催眠で苦しい人生の方がずっと多く現れてくるのは、このせいでしょう。
安楽な人生、つまり休息の時は、普通はそれほど意味を持っていないのです。
ブライアン・ワイス『前世療法(2)』(山川紘矢・亜紀子訳)
(障害の多い方が多くを学べる)
障害となるものが少ないよりも沢山ある時の方が、多くを学ぶことができます。
困難な人間関係や多くの障害や悲しみに満ちた人生は、魂の成長にとってもっとも大きなチャンスなのです。霊的な成長を促進できるように、あなたはわざわざ、より困難な人生を選んだのかもしれません。 失業などの良くない出来事は、時にはより良いチャンスへのドアを開けてくれるものであったりします。早まって悲嘆にくれたりしてはなりません。運命がその複雑なタペストリーを織りあげるには、もう少し時間がかかるのです。
苦痛と困難に加えて、この世界には愛と喜びとエクスタシーもあります。
私達は他の人々の間にいることによって、愛を学ぶためにここにいるのです。そして他の人々もまた、私達と同じ道で、同じレッスンを学んでいます。愛は知的なものではありません。
私達が気づかなくても、絶えず私達に流れ込み、通りすぎてゆくダイナミックなエネルギーです。
私達は愛を与えることも、受け取ることも学ばなければなりません。人間社会の中で、
人との関わり合いの中で、人々への奉仕の中でこそ、すべてを超えた愛のエネルギーを私達は本当に理解できるのです。
ブライアン・ワイス『魂の療法)』(山川紘矢・亜紀子訳)
**********************************************************************************************
『 難有り、有難し。苦しみは成長のための試練。 』
田嶋一雄
難有り、有難し
三重県松坂市の中居正博さんの会社に伺いました。1年前に、胃がんの全摘手術。
その何気ないお言葉に感じ入ります。
「病気になって、人の優しさに気づけるようになりました。みんながいてくれることに感謝です。がんになって、ありがとうの思いです」。
「難有り」を真反対にすると「有難し」、ありがとうです。人生の困難を、自分がどう意味づけるか。
難有り有り難し
「有り難き中に住みける神々を 尚有り難く思う人々」
かくの如き素直な人々こそ、神々も御守り下さるなり。
有り難き事のみ思え人はただ
今日の尊き今の心の
有り難し、有り難し。・・・
何事もありがたいにて世にすめば
むこうものごとありがたいなり(御文一四三号)
黒住教は、〝ありがとうなる〟生き方で、感激感動そして感謝の心を養う道といえます。その陽気な心が開運の基となります。
黒住宗忠
難有り=有難し
有難し=難有り
有難いことです。
蒼氓。
有り難い!」を、もっと身近に
(元旦放送のRSK山陽放送ラジオ番組「新春を寿ぐ」より)
教主 黒住宗道
新年あけましておめでとうございます。
教主として初めて迎えた一年の始まりです。本年も、どうぞよろしくお願いいたします。ともに“活(い)かし合って取り次いで”まいりましょう!
さて、正月号の「道ごころ」を執筆する頃は「新春特別御祈念」の染筆の真っ只(ただ)中につき、地元山陽放送で元旦朝に放送されたラジオ番組向けの原稿をもって代えさせていただきますことをご容赦ください。
○ ○
昨年9月18日の第六代教主満80歳の誕生日に斎行された「教主継承式」の神事にて、黒住教第七代教主に就任いたしました。
茲(ここ)にあらためて、教祖黒住宗忠神以来の道統を受け継ぐことを天命と畏(かしこ)み奉(まつ)り、謹んで神務を全うすべく誠を尽くさせていただくことを、お誓いいたします。
「教主継承式」の中で、私は「奉祈(いのりたてまつる) 人皆の心の神の御開運」という祈りを掲げた「告諭」を発表しました。それは、全ての人に内在・潜在する「心の神」のはたらきが一層顕著に現れて、世の中が和やかに共に栄える「まることの世界」の実現を願った祈りです。
「まること(○事・丸事)」とは、「森羅万象、世の中の一切は、『丸い状態』すなわち大きな調和の中にある『丸いはたらき』すなわち大きな循環の動きである」ことを表現した教祖宗忠神の独自の言葉です。歪(ゆが)んでも凹(へこ)んでも偏(かたよ)っていても、完全円形・完全球体を保とうとする「まること」の中で調和(バランス)が図られ、個人の人間関係も国と国との国際関係も、また細胞レベルから宇宙レベルに至るまで、全て「まること」の循環作用の相互関係にあることを理解して、「まること」の象徴(シンボル)であり根源である日の神・天照大御神の丸く大きく明るく温かい神徳(日の御徳(みとく))が、天地自然に一層活き活きと満ち渡る「まることの世界」の実現を私たちは理想としています。
この「天照大御神の御心」、すなわち「神の心」が私たち一人ひとりの「心の神」として鎮まっていると信じるが故に、「人皆の心の神の御開運」を祈らせていただくのです。「人は元来、罪の子でも穢(けが)れの子でもない。『心の神』をいただく尊い神の子」を人間観の基本とする私たちですが、「心の神」の鎮まり場所といえる私たちの心(心情・感情・気持ち)が「『神の子の心』に相応(ふさわ)しいか…」というと、誰もが同感するように、残念ながらそんなことはありません。「罪の子」・「穢れの子」と考えた方がよほど納得できるほど、人の心は汚れやすくて傷つきやすいものです。事実、「人は元来罪深い存在(原罪論)だから、神(天主)と契約を結んで救われなさい」という西欧の宗教の教えはよく知られるところですが、「純真・純粋だからこそ汚れやすく、新鮮だからこそ傷みやすい」、「上流の水は清浄でも下流の水は淀(よど)みがち」と捉えるが故に「祓い・清め」を重んじて、立派な生涯を生き抜いた人を神として祀(まつ)る神道の世界観を、古来日本人は尊んできたのだと思います。もったいないことですが、黒住教が幕末の頃から「神道の教えの大元」と称されてきたのは、日本人が大切にしてきた信仰的伝統をそのまま教え説き示したのが教祖宗忠神であったからだと理解しています。
ところで、毎朝日の出を拝んでいますと、曇りの日もあれば、雨の日も雪の日も嵐の日もあります。雨や雪や嵐の日は屋内で拝礼しますが、「雨の日でも日拝するんですか?」と問われるたびに、「見えない神様を信じているぐらいですから、たまたま目の前に御姿が見えないだけのお日様は当然拝みますよ」と応答するようにしています。いずれにしても、厚い雲に妨げられて目で見て朝日を拝めない朝に、いつも私が思うのは「私たちの心にどれほど厚く黒い雲霧が立ち込めようとも、その奥に鎮まっている『心の神』の存在をないがしろにしてはならない」ということです。
私は黒住教教主として、一人でも多くの方が、一人ひとりの本体である「心の神」の存在に目覚めて、人皆の「心の神」のはたらきが大いに発揚(はつよう)されることを願ってともに祈り合い、互いの誠という「心の神」のはたらきを活かし合える、「まることの世界」の実現に向けて誠を尽したいと思っています。
時代は、健全な心を育む宗教的叡智(えいち)を求めています。「いのちの宗教」であり「生きる教え」といえる黒住教は、人々の“元の気”である“元気”を喚起できると信じています。“元の気”こそ、「心の神」の神徳そのものだからです。
そこで、私は、世の人々に「『有り難い!』を、もっと身近に」と呼び掛けたいと思います。今、こうして公共の電波を通してお話しできることを、まさに「有り難い!」と思っています。「嬉(うれ)しい!」、「楽しい!」、「面白い!」、「素晴らしい!」、「美味(おい)しい!」と同じように、いえ、それ以上に「有り難い!」が、もっと多くの人々の口からたびたび発せられる世の中であったら…と願います。個人の歓喜と感激を表す言葉に差をつける必要はありませんが、神様や仏様まで意識しなくても、誰かの、または何かの「おかげさまで…」の心が加わった「有り難い!」という歓喜と感激と感謝の言葉は、きっと自他共に互いの心を豊かにしてくれると信じるからです。
“お日様教”ともいえる黒住教の教主として、一人でも多くの方に「日の御徳」をいただいて「日の御蔭(みかげ)」という“おかげ”を授かっていただき、「有り難い!」という歓喜・感激・感謝の言葉を取り次げる教主でありたいと願っています。
今後とも、まずは、この一年(ひととせ)、どうぞよろしくお願い申し上げます。最後になりましたが、皆様のご開運をお祈りいたします。
※RSK山陽放送ラジオは、昭和28年(1953)に岡山市に開局し、以降毎年、元旦放送恒例の第一声として、五代宗和教主様の「新春を寿ぐ」とのご挨拶(あいさつ)を放送してきました。同49年(1974)からは、六代教主様が同放送を受け継がれ、本年より現教主様に継承されました。