未完成のまま世に出されたこの童話は、賢治の思いの詰まった作品となつています。
作者の宮沢賢治が「銀河鉄道の夜」を書き始めたのは、妹のとし(またはトシ、とし子)の死後である。
賢治は下に四人の弟妹がいた。その中でも賢治はとしに「信仰を一つにするたった一人のみちずれ」*1と呼びかけている。そのことから、賢治はとしに対する特別な思い入れがあったことが分かる。
としは賢治の歌稿を筆写しまとめたりして、彼の創作活動を手伝った。また彼女は賢治の作品にたいする良き理解者でもあった。
そのため、賢治が二十六歳の時にとしが亡くなったことは、彼の人生の中で大きな衝撃だったに違いない。
賢治は日記をつけずに、短歌や詩が日記代わりとなった。
としが亡くなった頃に生まれた詩から見ても、彼女の死が彼の中でどれほど悲痛なものだったかうかがえる。
としの死から一年後賢治は「風林」という詩を書いた。その詩の中で賢治は、死んだ妹が「天の木星にいるのかもしれない*2とうたった。
そして彼はこの年の七月、樺太鉄道に乗って北へ傷心旅行へ出かけた。
(表向きは、教えていた農学校の生徒の就職を樺太の知人に頼みに行くというものだった。)
賢治はなぜ北へ向かったのか。それは北の果て、北極がいちばん天に近いと思ったからだろう。しかし北極へは行けないので、鉄道と船で行けるところまで北へ行く。
この旅行こそが、「銀河鉄道の夜」の元になっているのである。
例えば、樺太鉄道の終点は、オホーツク海に面した栄浜ですが、この駅は物語の中の白鳥の停車場であるといえる。
栄浜へ着いたのは、午前十一時十五分で、物語内でも白鳥駅に着いたのは十一時である。そして栄浜駅から歩いて栄浜海岸え行くことができる。これもまた物語内でジョバンニとカンパネルラが白鳥駅からプリオシン海岸え歩いてゆく箇所と同じである。
このように、賢治の旅行は物語の流れと似ている点が多い。
そして物語内のジョバンニとカムパネルラは「死んだトシと生きている賢治」を指す。
としの死を経て、感傷旅行に出かけた賢治。「銀河鉄道の夜」誕生のきっかけはまさしくそこにある。
一度「銀河鉄道の夜」を読んだことある人も、ジョバンニが賢治で、カムパネルラがとしであったことを踏まえたうえで読んでみれば、「銀河鉄道の夜」を新しい視野でとらえることができるだろう
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詩人は苦悩をも享楽する 永遠の未完成、これ完成である。
農民芸術概論要綱 宮沢賢治
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われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である
農民芸術概論要綱 序論より 宮沢賢治
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参考、
生前10年間にわたって推敲された「銀河鉄道の夜」は賢治が亡くなった病床の枕元に未完の原稿として残されていた。
生前に出版されたのは「春と修羅」自費出版1000部ほとんど売れず。
「注文の多い料理店」1000部全く売れず。自ら買い取る、の二作品のみ。
賢治は共感覚の持ち主だったようです。
ちなみに共感覚の持ち主はモーツァルト、レオナルド、ダビンチ、フランツ・リスト、ビリージョエル、アンチュール・ランボー、ももっていたようです。
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引用文献
1* 東光敬著p38「妹の死」「銀河鉄道の夜を作った宮沢賢治」
宮沢賢治の生涯と作品 1998年6月15日 たまに書房
2* 畑山博著p50「銀河鉄道の夜」もうひとつの読み方「銀河鉄道の夜」魂の旅1996年9月5日 php研究所