天国に招かれる人間の条件
では、天国の霊となり、天国的な幸福の中で永遠の霊的生活を送れるのはどんな人間なのか。
ここでこんな質問をしてみよう。
「あなたは、手に抱いた幼い子供に頬ずりしている母親の姿を見て、どんな気持ちになるだろうか」
この光景は、心和む気持ちにさせるに違いない。幼児の姿には無垢なものを感じ、母親の姿には愛を感じるからだ。
ここには確かに天国のひとつの光景がある。無垢と愛は天国の姿だからである。
これに悟りの知恵が加われば、それが天国のすべてだとさえ言っていい。
天国の霊となっている者は、その心が天国の本質と同化している者なのだから、天国に行ける霊はそういう心を持った霊だと言えば、これが回答になる。
天国は「天の理」を悟り、それに無垢な信頼を寄せている者の国にほかならない。
そのために、天国の霊はほかの霊に対し、自分を愛する以上の愛情を持っている。 どんな人間が天国に招かれるかを知ってもらうために、私が見てきた2つの国のグループのことを紹介しよう。
私はあるとき、未開民族の霊たちが集まっている天国の団体に行った。そして彼らと「信と善行」について議論もした。
彼らはさかんにこう強調したのだった。
「隣人に対する愛情はとても大事なことだ」 彼らと議論した「信」とは「天の理」の本質を理解するということだが、「信」だけではまだ知性のレベルなのだ。それは次に「意志」の中に流れ入って「善行」という行動になって初めてホンモノになる。
彼らは人間だったときから、単純明快にそういう生き方をしていた人間だったのだ。 もう一つの例は、無学だが素朴な者たちの集まった天国の団体で、彼らはその姿も美しく輝いていた。
私がここでもっとも印象に残ったのは、彼らは外面のものがきれいにぬぐい去られ、最高のレベルの霊に導かれて暮らしていることであった。 彼らは人間だったときには無学だったとはいえ、いまは有名な学者などより、よほど高い知恵に満ちていた。
霊的な世界の知恵とは、この世の外面的な記憶などを元にする知恵(学者の知識は、ほとんどこのレベルの知恵にすぎない)とは性質もレベルも根本的に違うものなのだから、これも当然であろう。 いまの2つの例から大切なことがわかるだろう。
そのひとつは、「行為(善行)」の大切さということだ。いま紹介した未開民族の霊などは、天国に入りやすい霊たちだった。 これに対して、天国に入りにくいタイプの人間がいる。せいぜい霊国ぐらいにしか入れない者たちだ。
それは、人間だったときに自分の内面に関することには無関心で、外面的なこと、この世的なことばかりに熱心だった霊だ。彼はまだ天界に行くには準備不足の段階なのだ。それは、彼が人間だったときに、あまりにも外面の殻をつけすぎてしまったためであった。
人間は本来、霊的内面と、肉体という外面を持った存在である。また、外面というと、人はどうしても「肉体」という形に見えるものだけを考えてしまう。しかし、私がここで言う「外面」とはそれだけではなく、食欲などの欲望、また普通の視覚、聴覚、などの五感も、物事を覚えているといった記憶も、外面に入る。 なぜなら、このような欲望や感覚、記憶は、肉体を持った人間が生存を確保していくために奉仕する心理的、感覚的な作用だからである。これなしには、肉体を持った人間は生きていくことはできない。だが、これだけなら実は動物たちも持っている。だから、これがあるからといって、それだけで動物と人間を区別することはできない。
しかし、人間は動物と違って、これらのほかに霊的なものを内面深くに持っていて、そのために、霊の世界や天国と通じている。人間は人間であるときには、いまの外面的なものを強く持っているので、人間そのままでは天国には入れない。しかし、死んでそれが除かれれば入ることができる。 ただし、人間だったときにその内面を深く耕していた人間と、そうでなくて、まだ外面的なものを強く残している人間とでは、大きな差が出てくる。前者は容易に天国に入れるのに対し、後者はそれを取り除くのに時間がかかるので、なかなか天国に入れなかったりする。 そして、内面を耕すのに必要なのが、実は善行という行為なのだ。これは、「善を知って実践する」ということにほかならない。単純に「信」があるだけでは、内面は十分には耕されない。
その「信」は、「意志」を通じた「善行」という行為になって初めて効果を発揮するものなのだ。
さて、いま述べたことで、どんな人間が霊界のどこに行って、どんな霊的な生活を送ることになるかは見当がついたに違いない。そこで私は、本章の最後にぜひ、このことを言っておきたい。
それは、「事態は時を経るにつれて次第に悪くなってきた」ということである。
私は霊界で、古代の多くの偉人たちにも会った。彼らはみな、最上界の天国にいて、その姿も輝き、後光やオーラを背負っている者も少なくなかった。
私は彼らともいろいろな話をしたが、彼らも「時が下るにつれて、次第に悪い時代になっている」と、同じような指摘をしていたものである。そして、「だから、最上の天国に入れる霊は、時代とともに少なくなっている」とも言っていた。 では、なぜそんなことになったのか。
この結論は、
世間の人びとが科学とか学問とか、あるいは社会的栄達とかいった外面のことばかりに関心を持ち、
内面のことを忘れるようになったためである。
東洋のある宗教は、悪業が時間とともに積み重なって、人間は最後にはより大きな刑罰を受ける、ということを教えているという。これはカルマと言われるそうだ。
私は、人間の中にある生得の外面的な悪が、親から子へ、子から孫へと蓄積されるために、時代がその質を低下させてきているのかも知れないと思っている。外面への傾斜という時代の流れは、
この世だけが人間の生きる場であるならともかく、霊界というより大きな世界における私たちの生を考えるとき、きわめて由々しき問題である。
霊界からの手記
スウェーデン・ボルグ著・訳今村光一
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参考。
信=意志=善行
【善を知って実践する】
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