私(アン・ドゥーリー) にとっては一九六三年秋に初めて出席した交霊会は忘れ難いものとなった。
格別目を見張るような現象があったわけではない。常連のメンバー六人に私を含む招待客六人の計十二人が出席した。雰囲気は極めてリラックスして和気あいあいとしていた。部屋はロンドン近郊の樹木に囲まれたバーバネル氏の自宅の一階の居間で、書物の並ぶ壁で四方を取り囲まれた素敵な部屋であった。
聞いた話では交霊会は〝テーブルの振動〟によって始まるとのことであった。確かにそうなのだが、その時の印象は見ると聞くとでは大違いであった。
死んだカエルの足がピクピク引きつるのを科学者が目撃したのが電気時代の始まりだそうだが、私にとってそんな言い草は、他の出席者と共に両手をテーブルの上に置いたとたんに消し飛んだ。
テーブルに〝生命〟が吹き込まれるのをこの目で見ただけでなくこの手で感じ取ったのである。
出席者が誠実な人ばかりであることは確信していたので、誰かが故意に動かしているのではないことは断言できる。
そのテーブルがこちらの挨拶に応えて筋の通った反応を見せた時に、私がこれまで抱いていた万有引力の法則の概念が崩れ去った。
何の変哲もない無生物である木製のテーブルがギーギーときしむ音を出しながら人間が頷くような動作から、苛立つように激しく前後に揺れ動く動作まで、さまざまな動きを見せるのだった。
そうした現象がひと通り終わって全員が着席すると、霊媒のバーバネルがソファに腰掛けて入神状態に入った。
その瞬間から会が目に見えぬ一団によって進められている雰囲気となった。
そして私は神秘家の言う〝聖霊の降下〟を垣間見ることとなった。
驚いたことにバーバネル氏の顔が急に変貌し始めたのである。
仕事の上で慣れ親しんでいるあの皮肉屋でいつも葉巻を口にした毒舌家のジャーナリストに、一体何の変化が生じたのだろうか。
フロイトに言わせると、精神病や夢の原因はことごとく潜在意識の仕業だそうで、われわれもそう思い込んできた。
が、
それから八〇分間にわたって私がこの目で見この耳で聞いたものは、そんな単純な説明ではとても解釈できるものではなかった。ジャーナリストとしてネタ集めに奔走してきた関係で、私は熟練の税関職員と同じように、話しぶりや挙動でその人の本性を見抜く才能が身についている。
いま目の前でしゃべり始めたのが日ごろ親しくしているバーバネル氏とは別人であることを私はすぐに直感した。
バーバネル氏の身体がしゃべっているのであるが、それはバーバネル氏その人ではない。話しぶりが全く違うのである。
その日、シルバーバーチは出席者の一人一人に個別に語りかけたが、その内容は万人に共通した普遍的なものであった。
ただ序(ツイデ)に付け加えれば、
その日この強(シタタ)か者の私を含む三人の女性が涙を流した。
悲しみの涙ではない。感激の涙である。
こう言うとまた否定論者の偏見を招くことになるかもしれない。が、ギリシャのデルポイの神託でリディアの最後の王クロイソスが何の変哲もないメッセージを受けたことがもとで、王国が根柢から揺れ動いた例もあることを忘れてはならない。
さて長年の慣例に従い私もシルバーバーチに悩みごとの相談を許された。
私はこう質問した。
「私が今なお理解できないのはこの世に不可抗力の苦難が絶えず、それが私を含めて多くの人間を神へ背を向けさせていることです。」
「なるほど。でも神はその方たちに背を向けませんよ。いったいどうあってほしいとおっしゃるのですか。苦労なしに勝利を収め、努力なしに賞を獲得したいとおっしゃるのでしょうか」
次に私は
「当然の報いと慈悲との関係がよく分かりません」 と尋ねた。
「報いは報いであり慈悲は慈悲です。地上で報われない時はこちらの世界 (死後の世界) で報われます。
神をごまかすことはできません。
なぜなら永遠の法則が全ての出来事をチェックしているからです。その働きは完璧です。
宇宙を創造したのは愛です。無限なる神の愛です。
無限なる愛がある以上、そこに慈悲が無いはずはないでしょう。
なぜなら慈悲心、思いやり、寛容心、公正、慈善、愛、こうしたものはすべて神の属性だからです。
苦難は無くてはならぬものなのです。
いったい霊性の向上はどうすれば得られるのでしょう。安逸をむさぼっていて得られるでしょうか。
楽でないからこそ価値があるのです。
もし楽に得られるのであったら価値はありません。
身についてしまえば楽に思えるでしょう。身につくまでは楽ではなかったのです。」
このハンネン・スワッハー・ホームサークルにおけるシルバーバーチの霊言の全てが公表されれば、いま物質主義的文化の危険な曲がり角に立つ人類が抱える諸問題についての注目すべき叡智が数多く発見されることであろう。
とりあえずその中から私なりに選んだ叡智の幾つかを紹介するに際し、読者の全てがご自分の人生において慰めとなり、あるいは思考の糧となる何ものかを見出されることを希望してやまない次第である。
一九六六年 アン・ドゥーリー
まえがき
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