真理との邂逅 高級霊のメッセージ   

 「わたしは生命である」神の生命がわたしの中で生き給うが故にわたしは生きている。生命は神であり神は生命である。 心身の神癒 第6話6 *****あらゆることのうち最も重大なのは、神のみが生きてい給うのであり、その神が今の今御自身を顕現しつつあるのを認めることである。私の中に常に留まっておられるのは父であり、父が父御自身の業をしていらっしゃるのである。この事も又あなたたちは悟らなければならない。心身の神癒 第9話3

Q25、進化の極致において神と合一したとき、われわれは個性を失ってしまうのでしょうか? 

 

 

 

進化の極致は(ニルバーナ)に到達することではありません。

 

霊的進化は個性の無限の開発に向けての歩みです。

 

個性が薄らいでゆくのではなく、逆に鮮烈になってゆくのです。

 

潜在能力が開発され、より多くの知識を身につけ、性格が

 

強化され、神性がますます発揮されていきます。

 

 

 

大霊は無限の存在ですから、開発は無限に続きます。

 

完全というものは達成されません。

 

完全へ向けての無限の努力が続くのです。

 

自分を失うことは永遠にありません。

 

永遠に自分を発見してゆくのです。 

 

 

 

 

 

 

 

       

 

        崇高な存在との対話   

      さまざまな問題第9章 164p

 

**********************************************************************************************

    

  参考、 

 

 

    

  youtu.be

 

 

  

  youtu.be

 

**********************************************************************************************

 

参考、

   

 

 
 
①あなたの奥にはいわゆる‟神”の属性である莫大なエネルギーの全てを、
 
小宇宙の形で秘めています
 
その秘められた神性を開発しそれを生活の原動力とすれば、心配も悩みも立ちどころに消えてしまいます。
 
なぜなら、この世に自分の力で克服できないものは何一つ起きないことを悟るからです。
 
その悟りを得ることこそ、あなた方のつとめなのです。
 
 

 

霊性に気づいた人は、真に目覚めた人です。魂が目を覚ますと、その奥に秘められた驚異的な威力を認識するようになります。それはこの宇宙で最も強力なエネルギーの一つなのです。その時から霊界の援助と指導とインスピレーションと知恵を授かる通路が開けます。これは単に地上で血縁関係にあった霊の接近を可能にさせるだけでなく、それ以上に重要な霊的関係によって結ばれた霊との関係を緊密にします。その存在を認識しただけ、一層深くあなたの生活に関わり合い、援助の手を差し伸べます。

 

③自分に生命を賦与してくれた力がきっと支えてくれるという自信を持つことです。

 

ゆえにあなた方は常にリラックスし、

 

受信的で穏やかで平静で、しかも奥に自信を秘めた状態であらねばなりません。

 

その状態である限り万事がうまくいき、

 

必要とするもの全てが施されるとの確信を持たなければいけません。

 

不動の信念を持てば必ず道は開かれます。

 

 

魂は肉体の奥深くに埋もれているため、

 

それを目覚めさせるにはよほどの体験を必要とします。悲しみ、無念、病気、不幸等は地上の人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです。

 

悲しみは、魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚たる意味を持ち、それが魂の琴線に触れた時、一番よく魂の目を覚まさせるものです。

 

恐怖心こそ、人類最大の敵です。恐怖心は人の心をむしばみ、理性を挫き、まひさせます。

 

あらゆる苦難を克服させるはずの力を寄せつけません。つとめて恐れの念を打ち消すことです。

 

霊的真理を知った者は常に冷静に、晴れやかに、自信にあふれ、決して取り乱すことがあってはなりません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人間の思考や言動において動機というものが大きなポイントとなることが確かですが、法則を犯したことに対しては代償を払わなければなりません。

 

動機さえ正しければ何をやってもかまわないというわけにはいかないというわけです。

一口に「法則」と言っても肉体を支配する法則もあれば、精神を支配する法則もあります。

人間は、自分はもうダメだという段階に至るまで、そうゆう法則に気づかないから厄介なのです。

それはなぜかと言いますと、人間と宇宙の真実の姿を知らず、

 

この世はすべて”物”と”カネ”であると考えているからです。

 

しかし、そうした苦しみの末に、いつかは真実に目覚める時がやってまいります。

自我の意識が芽生え、内在する神性が目覚め始めます。

これも実は神の因果律の働きの結果なのです

つまり、苦しみが大きければ大きいほど、目覚める知識も大きいということです

神は宇宙で最も優秀な会計係と考えればいいでしょう。

収支のバランスをきちんと合わせ、使途の配分に一円の狂いもありません。

あなたは受け取るに値するだけを受け取ります。

多すぎることも少なすぎることもありません。

その価値判断は、あなたの霊的進化の程度を考慮した上で行われます

地上ではごまかしやお目こぼしがきくかもしれませんが、

霊的なことにかんするかぎりそれはそれは絶対ありません

 

大自然の法則は完璧です。

その背後には神の無限の愛と叡智が働いております

私たちはその働きを知っているだけです。

 

「原因があれば結果があり、その結果が新しい原因となって、また次の結果を生んでいく」という法則です。

 

その間に何者も介入することは許されません。偶然もありません。幸運もありません。ただ法則があるだけです。

 

法則は絶え間なく機能し、変化することもなく、人為的に変えることもできません。

法則の中から都合のよいものだけを選ぶこともできません。

絶対なのです。

神とはすなわち法の極致であり、法の枠であり、いかなる力、いかなる情実をもってしても動かすことはできないのです。

 

      

         第2章 絶対不変の法則~因果律 一部抜粋

 

 

 

       古代霊は語る   シルバーバーチの霊訓より

                近藤千雄・編

**********************************************************************************************

 

 

 

   

  youtu.be

    3:23        大切なのは魂の進化です

    4:29        因果律は魂の進化のためにあるのです。

    5:08        環境が厳しいほど魂が強くなる。

 

 

   

    

  youtu.be

 

  youtu.be

   

 

 

 

   

  youtu.be

        

 

   

  youtu.be

               優しいし声ですね。

 

 

    

 

 

 

    あれは祈りだよ。」 と、清六さん(賢治の弟)は話していたそうです。 短い生涯、理念の実現にむけて休むことを知らずにひたすらにたたかいつづけた賢治さんは、闘病生活のさなかにあっても果敢に思考を繰り返しました。残された一冊の手帖にあったこの「祈り」の言葉は、今もわたしたちのこころを揺さぶります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

果糖、取り過ぎ要注意 脂肪肝など生活習慣病にも

 

 

 

砂糖の害について「まんが」で分かりやすく!  サイトより。

 

子育て、両親に砂糖の害 元々砂糖の害は有名ですが、どんな情報でも賛否両論はあるはずですし、今回初めて知ったという方も、色んな意見を見れた方が有益だと思い全て承認して来ましたが、見知らぬ方からの過度に攻撃的な文面が続いても平気で居れるほどメンタルが強くも無く、無意味にただの嫌がらせも増えて来て、対応に悩んで来てしまいました。

ブログの閲覧数も15万を超えとても驚いています。 元々はただの母親が、わが子の為にと本やネットから学んだ事を、親族にも伝えたくて描いたものです。

「なるほど!」と思って下さった方も、是非色々ご自身で色々調べてみて下さいね!^^  やっぱりそうなんだ、という事もあれば、ここは違うな、という発見もあると思います。

人任せではなく、「自分達の事は、自分で調べ、自分で考え、自分で決める」という事が子供の為にも一番大事な事だと、私は思っています^^

何事も、自分で実際に研究し自分の目で見た訳でなければ、真実は分からないし、どんな論文に書いてあった内容でも、権威ある人が発信している情報でも、どこかの偉い人が科学的に証明してくれている事であっても、それを見たところで結局はただの聞きかじりでしかないんだ思います。

それでも、これだけ情報が溢れている中、より良い生活を目指し、自分が納得の行くものを、自分の感覚を頼りに選んで行くしかない。 そう思っています。

 

 

******************************************************************************

 

 

 

アップルの創業者スティーブ・ジョブズ氏の死因は、メディアで取り上げられることは、ありません。

 

そこには、大きな利権が関わっているからです。

 

思想 ジョブズ氏は、禅仏教に強く傾倒し、禅宗仏教徒として生涯を過ごしました。 また、曹洞宗禅宗である乙川弘文師を心から慕っていました。 さらに、乙川弘文師は、ジョブズ氏の仏前結婚式を執り行いました。 ジョブズ氏がこれほど日本と深い関わりがあったとは、意外ですよね。

 

  ジョブズ氏は、インドの偉大なるヨガの伝道師パラマハンサ・ヨガナンダの「あるヨギの自叙伝」を座右の書とし、私物のiPadに入れた唯一の電子書籍でした。 あるヨギの自叙伝 [ パラマハンサ・ヨガナンダ ]

 

 

独自の食事スタイル ジョブズ氏は、

ヴィーガン、フルータリアン、マクロビオティックスなどの食生活をとりいれました。

 

ヴィーガン:厳格な菜食主義者

・フルータリアン:果実食主義者

マクロビオティック:玄米菜食主義

 

ジョブズ氏は、魚介類は例外として、食べていました。

また、ジョブズ氏は、寿司を好んでいました。

 

ガン発症

  

2003年に膵臓がんが発見されました。 膵臓がんは、通常、すぐに手術すれば回復することが多い症例でした。 しかし、ジョブズ氏は、家族など周囲の人のアドバイスを押し切って、手術を拒否しました。

ジョブズ氏が頼ったのは下記の代替療法でした。

・菜食 ・ハリ治療 ・ハーブ治療 ・心霊療法 ・民間療法 2004年7月に受けた検査でがんは大きくなっていました。 結果的に、手術を受けましたが、がん細胞はすでに肝臓に転移していました。 それでも、手術後の放射線治療や化学療法を拒否しました。

ジョブズ氏は、医師の薦めるバランスの取れた食事を断り、菜食主義を続けました。

なんと、りんごとニンジンしか食べない生活を1週間も続けたこともありました。

2009年3月にジョブズ氏は、肝臓移植の手術を受けました。

しかし、2011年10月5日に息を引き取りました。 フルータリアンの恐怖 Jobs_6.jpg 膵臓がんの大きな原因の1つとして、糖分の過多が挙げられます。

 

果糖の過剰摂取は、がん細胞の増殖を進める結果を招きます。 ジョブズ氏の死因は、果実に含まれるブドウ糖や果糖の過剰摂取が膵臓に負担をかけ、膵臓がんの発症に至ったと考えられます。

 

メディアが報じない「砂糖の害」 Modern-Day-Mind-Control-Overview.jpg メディアが「砂糖の害」を報じない理由は明確です。

 

テレビがこの問題を取り上げると、テレビのスポンサーの食品メーカーからクレームがくるからです。 従って、事実は、金の力で国民には伏せられたままになってしまいます。

 

   しかし、本記事を通して、多くの方がこの事実に気づいてくれたら幸いです。

 

 

 

 

 

 youtu.be

 

 

  

 

  youtu.be

 

  

  心身一如。健康は知ることから始まる。

                                  蒼氓。

 

 

  

   youtu.be

 

 

 

  

 

youtu.be

 

 

 

  

  youtu.be

      私も最近知りました。テレビでは・・・スポンサー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

心霊治療の仕事の大切な要素は身体を治すことでなくて魂の琴線に触れさせることです。

 

 

 

 

 

 

 

心霊治療の仕事の大切な要素は身体を治すことではなくて魂の琴線に触れさせることです。

 

魂を目覚めさせ、身体への支配力を大きくさせ、生きる目的を自覚させ、霊的存在としての本来の自我を表現させることに成功すれば、これは治療家として最大の貢献をしたことになります。

 


そのことの方が身体を治すことより大切です。

 

それが治療家としてのあなたの努力として、永遠に残る要素です。人間は精神と肉体と魂とが一体となったものです。

 

  

    youtu.be

  

十二章 病気とカルマ(宿業)-エドワーズ夫妻を迎えて-

心霊治療家として世界的に知られているハリー・エドワーズ氏が夫人と共に招かれた。まずエドワーズ氏が次のような謙虚な質問をした。(ハリー・エドワーズについて)

 

 「私がいつも関心を抱いているのは私達治療家に何が治せるかではなくて、どうしても治せずにいる病気のことです。どうすればより多くの病を治し、どうすればそちらの世界の人との協力関係を深めることが出来るでしょうか」


 「私達は偉大にして遠大な目的に向かって協力し合っております。その目的とは薄幸の人々、虚弱な人々、苦痛に喘ぐ人々、寄る辺なき人々、悲嘆に首をうなだれ胸を塞がれる思いをしている人々に少しでも援助の手を差し延べてあげることです。

 

霊の力は人間を媒体として注ぎ込む機を窺っております。その機を見つけると、病気の場合であれば治癒力を見せ付けることによって、人間の協力さえ得られれば見えざる世界の威力と光明とをもたらすことが出来ることを示します。


霊の力はすなわち生命力です。生命があるのは霊があるからこそです。

霊は生命であり生命は霊です。

 

この荘厳にして途轍もなく広大な宇宙を創造した力も、あなた方を生かしめ、これから後もずっと生かしめていく力と同じものです。

又、あなた方が愛し合い、物を思い、心を遣い、判断し、反省し、決断し、勘案し、熟考し、霊感を受け、人間的情感の絶頂からドン底までの全てを体験させる力、それは霊の力なのです。

 


あなた方の一人一人が神であり、神はあなた方一人一人であると言えます。

 

 

程度の差があるだけで、

 

その本質、実質においては同じです。

 

人間は言わばミクロの神です。

 

その神の力が病人を癒すのです。その力を分析してお見せすることは出来ません。何で出来ているかを説明することも出来ません。私に言えることは、それが無限の形態をとって顕現している-なぜなら生命は無限だから、ということだけです。


 霊媒現象の全てに共通した問題は、その霊的エネルギーのコントロールです。どのエネルギーがどれだけ発現出来るかはその時の条件一つに掛かっています。言い換えれば、その霊媒の有する資質と、それをより大きくより効果的にする為の修業をどこまで心掛けるかに掛かっています。私達の側においても常に新しいエネルギー、新しい放射線、新しい可能性を徐々に導入しては実験しております。


 ですが、そうしたものも霊媒の身体的、精神的、霊的適性によって規制を受けます。受容力が大きければ、それだけ多くのものが導入されます。小さければ、それだけ制限されることになります。


 霊力そのものは自然法則によるもの以外には何一つ制約はありません。自然法則の枠組みから離れて働くことだけは出来ないのです。が、その枠組みというのが途方もなく広範囲に亘っており、これまで地上の霊媒を通じて顕現されてきたものより遙かに多くのものが、未だに顕現されずに残されております。


 私が指摘しておきたいのは、多くの真面目で信心深い人々が神の力がバイブルに記録されている古い時代にその全てが顕現され尽くしたと思い込んでいるのは間違いだということです。

 

啓示もそれ以来ずっと進歩し続けております。

 

現代の霊媒を通して顕現されている霊力の方が過去の時代のものに比べて遙かに偉大です。

 

 さてあなた(エドワーズ氏)は豊かな恩恵に浴しておられるお一人です。あなたの直ぐ身の回りで働いている霊の姿をご覧になる視力があればよいのにと思われてなりません。

 

背後霊の存在に確信を抱き、あなたを導く霊力に不動の信頼を置いておられますが、その背後霊が誰でありどんな人物であるかをご覧になれたら、もっともっと自信をもたれることでしょう。


 (エドワーズ氏の背後霊団の中心的指導霊は十九世紀の英国の外科医で消毒殺菌法の完成者J・リスターとフランスの化学者で狂犬病予防接種法の発見者L・パスツールであると言われる。尚エドワーズは1976年に他界している-訳者)


 私のような古い霊が確信をもって言えるのは、あなたの地上生活は今日の絶頂期を迎えるべく、ずっと導かれて来ているということです。

 

意図された通りのものを今まさに成就されつつあります。今まさにその目的地に辿り着かれました。背後霊団があなたの協力を得て初めて成就出来る仕事に携わっていることを喜ぶべきです。
 以上の私の話に納得がいかれましたか」


 「よく分かります。ただ、そうなると二つの疑問が生じます。一つは、背後霊団はもう少し私達治療家を効果的に改良出来ないものかということです。例えば両足共不自由な子供がいるとします。一方の足は良くなったのに、もう一方の足は良くならないことがあります。どこに問題があるのでしょうか。私は治療家の側に問題があるに違いないと思うのです。

なぜなら、一方の足が治せれば当然もう一方も治せなければならないからです」
 

「治療家が望む通りの結果、或いは背後霊団がその時に目標とした通りが成果が得られるとは限りません。霊媒(治療家)を通して得られる限られた治癒エネルギーでもって最大限の治療効果を挙げなければなりません。一つの治療に全部のエネルギーを集中すれば一気に効果が挙げられるかも知れません。が、次の治療の為のエネルギーを溜めるのに長い時間を要することになります。

 

 一つ一つが実験だと私は言っているのです。

 

治療霊団も前もってこれはこうなるという保証は出来ません。

効果が出ることは分かっても、どこまで治るかは分かりません。

前もって知ることの出来ない要素が幾つもあるからです。それは治療活動を制約することになるかも知れません。ですが、それまで少しも治らなかったものに治る兆しが見えるだけでも喜ぶべきことです。


 それは立派な貢献と言えます。それだけでもあなたは堂々と背後霊団に向かって〝さあ、この私を使ってください。皆さんを信じています。あなた方の言う通りに致します〟と公言する資格があります。勿論あなたの下に連れて来られた患者が魔法のように即座に治ればこんなに嬉しいことはありません。が、それは有り得ないことです。

 

 問題が色々とあるのです。

この仕事も言わば開拓者(パイオニア)的な分野に属します。あなたに協力している霊団は一つ一つの症状の変化を知った上で、更にテクニックを改良し効果を挙げる為に他の要素を導入しようと忙しく立ち働いております。治療に当たる度に症状が改善されているのを観察されている筈です」
 

「仰る通りです」 「協力関係が密接である程、多くの霊力が伝達されるのが道理なのですが、それを制約する要素としてもう一つの問題が絡んで来ます。議論の多い問題に踏み込むことになるのは百も承知ですが、それが事実であるからには黙って見過ごすわけには行きませんので敢えて申し上げますが、

 

どうしても避けられない要素の一つに患者のカルマ(宿業)の問題があります。

当人の霊的成長の度合によって決められる精神と身体の関係です。

お分かりでしょうか」 

「どうぞその先をお話ください」
 

「そう仰ると思っていました。これは実に重大な問題であり、あなたにとっても意外に思われることも含まれております。

 

心霊治療の仕事の大切な要素は身体を治すことではなくて魂の琴線に触れさせることです。

 

魂を目覚めさせ、身体への支配力を大きくさせ、生きる目的を自覚させ、霊的存在としての本来の自我を表現させることに成功すれば、これは治療家として最大の貢献をしたことになります。

 


そのことの方が身体を治すことより大切です。

 

それが治療家としてのあなたの努力として、永遠に残る要素です。人間は精神と肉体と魂とが一体となったものです。

 

これに、その三者が互いに絡み合って生じる要素もあります。その影響を無視してはいけません。


 病気というのはその大半は主として精神と肉体と魂との間の連絡が正しく行われていないことに起因しています。正しく行われていれば、つまり完全な一体関係にあれば完全な健康と安定性と落ち着きと機敏性を具えています。

 

もっとも、そういう人物は地上では滅多にお目にかかれません。
さて、あなたの下を訪れる患者はその人なりの霊的成長段階にあります。

 

人生という梯子の一つの段の上に立っているわけです。

それがどの段であるかが、その人に注がれる治癒力の分量を決します。それが私の言うカルマ的負債です。


 (その負債があまりに大きくて)あなたにも手の施しようのない人がいます。

 

肉体を犠牲にする、つまり死ぬこと以外に返済の方法がない人もいます。

 

もう一度チャンスが与えられる人もいます。

 

そんな人があなたとの縁で完治するということになる場合もあります。

精神的要素の為に治らない人もいます。

 

そんな場合は一時的に快方に向かっても、又別の症状となってぶり返すでしょう」
 「ということは、

 

カルマ的負債の方がその人に注がれる治癒力より大きいのだと思います」


 「仰る通りです。私は是非その点を強調したいのです。それが当人に賦課された税金であり、自分で綴っている物語であり、その筋書きは他の何ものによっても書き変えることは出来ないということです。初めに私は全ては法則の枠の中に存在すると申し上げました。何事もそれを前提として働きます。人間のいう奇跡は生じません。自然法則の停止も変更も廃止もありません。

 

  全てが原因と結果から成り立っております。

 

そこに自由への制約があります。もしも因果関係がキャンセル出来るとしたら、

神の公正が崩れます。

 

治療家に出来ることは魂を解放し、精神に自由を与えてあげることです。その結果が自然に身体に現れます」


 「それがカルマ的負債を返済する手助けをしてあげることになるのでしょうか」
 「その通りです。私が心霊治療家はその患者の魂の琴線に触れ、自我に目覚めさせ、生きる目的を自覚させることが一番重要な役目であると申し上げる理由はそこにあります」
 

「私達治療家が例外なく体験することですが、心の奥底からの喜び、高揚、崇高な情感、崇高な理念が湧き出るのを感じることがあります。あなたが仰るのはその時のことだと思います」
 

天と地とが融合した極限の瞬間-あっという間の一瞬でありながら全ての障壁が取り除かれた時、人間は自分本来の霊性を自覚します。

全ての束縛を押し破り、霊の本来の感覚であるところの法悦(エクスタシー)の状態に達するのです」

 ここでエドワーズ氏が再びカルマ的負債の問題を持ち出すと、シルバーバーチスピリチュアリズムの本来の大きな使命にまで敷衍(ふえん)してこう述べた。


 「あなたも私も、そしてこれに携わる人の全てがそれぞれに役割分担を担っている

 

    スピリチュアリズムの全目的は、

 

人類の魂を呼び醒まして一人でも多くの人間に本当の自分に気付かせること、

 

自分とは一体何か、誰なのかを知ることによって、普段の日常生活の中において霊の本性と属性を発揮することが出来るように導いてあげることです。


 それによって地上生活の全てが姿を一変し、利己主義という名の雑草の生い繁る荒野から理想の花咲くパラダイスへと変わることでしょう。我々は今それを目標として努力しているのであり、まずまずの成功を収めつつあります。

 

光明を見出す人、真の自我に目覚める人、物的な居眠りの生活から目覚める人-こうした人は人間本来の道を見出し、確信と知識とを携えて巡礼の旅に出る魂であると言えましょう」


この言葉に感動したエドワーズ氏が「これだけお教え頂  けば十分です。

 

 治るということ自体は重要ではないということですね」  と述べると、

 

 「私達スピリットが人間の苦しみに無関心であるという意味ではありません。

 

病を抱えた人々の悲劇や苦痛や侘しさに無頓着でいるわけではありません。が、そうした問題の究極の原因に手をつければ、精神と身体と霊との間の不調和に終止符を打つことが出来、そうなれば地上生活か必要としている光輝がふんだんに注がれるのです。

 

神の子が享受すべく意図されている本来のもの-気高さ、崇高さ、威厳、豊かさ、光輝、美しさを見出すことでしょう。


 こうした生活の末に死を迎えれば、来世に備える為の地上生活の大役を果たした肉体を何の苦痛もなく脱ぎ棄てて、楽に霊界への門を潜り抜けることが出来ます」

 その後エドワーズ氏の奥さんの方を向いてこう述べた。


 「これまでに成就されたことを奥さんも大いに喜んでください。今この場に集まっている霊界の(エドワーズ氏の)治療霊団の方が、奥さんの果たされた犠牲的な役割に対して抱いている感謝の気持を是非私の口から伝えて欲しいと頼んでおられますよ」


 これを聞いて奥さんが「自分はこんなことで良いのだろうかと時に迷ったこともありました」と述べると、

 

シルバーバーチは更にこう述べた。


 「私は、私より遙かに奥さんを知り尽くしているスピリットから頼まれて申し上げているだけです。

 

霊団の人達はあなたの心、あなたの精神、あなたの魂を知り尽くし、更にあなたが捧げられた忠誠心と愛の強さもよく知っておりす。


 その人達が言っているのです-ご主人の使命達成を可能にした蔭からのあなたの助力に対する感謝の気持を是非伝えて欲しいと。

 

一方が脚光を浴びる立場にあれば他方はその蔭にいなければなりません。

 

蔭の存在なくしては脚光を浴びる人もいないでしょう。

 

私達の目から見れば、

 

人の為に為された貢献は、黙って人知れず為されたものであろうと大勢の観衆を前にして華々しく為されたものであろうと、その評価にいささかの違いもありません

 

************************************************************** 

 

心霊治療の仕事の大切な要素は身体を治すことではなくて魂の琴線に触れさせることです。

魂を目覚めさせ、身体への支配力を大きくさせ、生きる目的を自覚させ、

霊的存在としての本来の自我を表現させることに成功すれば、

これは治療家として最大の貢献をしたことになります。

 

 そのことの方が身体を治すことより大切です。それが治療家としてのあなたの努力として、永遠に残る要素です。人間は精神と肉体と魂とが一体となったものです。

これに、そ三者が互いに絡み合って生じる要素もあります。その影響を無視してはいけません。

 

 

 

 

        英国スピリチュアルヒーリングのパイオニア・故ハリー・エドワーズ氏。彼の教えから見えてくる注意点 | ニコニコニュース

           ハーリエドワーズ。

 

  youtu.be

      

 

 

 

 

 

 

 

 

天才は小食。

 

 

 

食事の優先順位が低かったアインシュタイン

一般相対性理論」や「特殊相対性理論」を着想して、「光量子仮説」の研究でノーベル物理学賞を受賞した、 アルベルト・ アインシュタイン。「あかんべー」をした有名な写真は「天才」のシンボル的な扱いを受けており、アパレルブランドがTシャツを作ったりもしている。

当の本人はファッションにまるで関心がなかった。カラーや靴下も着けずに、すり切れたジャケットとスリッパで過ごして、周囲を困惑させていたくらいである。

「できるだけ気楽にしていたい」

そう考えたアインシュタインの姿は、科学者というよりも、芸術家を思わせるものだったという。そして服装と同様に、食事にもこだわりは見られなかった。

アインシュタインは学生時代、下宿の近くのレストランで食べることもあったが、パン屋でりんごパイやぶどうパイの一片を買い、自分の部屋で済ませてしまうこともたびたびだった。

大学教授になってからも食事の優先順位は低く、夕食はいつもソーセージと一切れのパンのみ。昼食もさっさと済ませては、共同研究者で友人のグロスマンに数学的議論をふっかけて、「まだ休みたいのに……」と相手に嫌がられていた。

おやつの時間も自由気まま。お菓子の包み紙が手元にあれば、そこに計算し始めたという。つねに研究のことしか頭になかったのだ。

ただ、年齢を重ねるに連れて、外食時の油で胃腸の調子を崩すことが重なり、やや食事に気を遣うようになったらしい。友人にこんなふうに忠告している。

「どんなに簡単なものでもいいから、家で食事しなさい」

といっても、自宅での料理にこだわったわけではない。知人の家をたびたび訪ねては、一緒に食事を楽しんでいる。あるとき、知人の家で、用意されたミルク、パン、チーズ、ケーキ、そして、果物をのせた小さなテーブルを見てこう叫んだ。

「こんな素敵な食事と、ヴァイオリン、ベッド、机と椅子のほかに何を望むことがあるだろう!」

このころ、アインシュタインの関心は発見した相対性理論のことばかりで、周囲から騒がれることに心底うんざりしていた。

気兼ねなく過ごせる自宅や友人の家で食事をしながら、おもむろに好きなヴァイオリンを弾く。そんな時間が、アインシュタインにとっては、かけがえのないリラックスタイムだったのである。

 

 

ニュートンアインシュタインの違い

 

アインシュタインと同様に、偉大なる法則を発見したのが、イギリスの科学者アイザックニュートンである。ニュートンにまつわる食べ物といえば、リンゴが思い浮かぶが、「リンゴが木から落下するのを見て、万有引力の法則を発見した」という逸話は伝説にすぎず、事実ではない。

「孤独は天才の学校である」

そんな言葉を残したニュートンは1人でひたすら研究することを好み、食事は不規則かつ少量だった。「食事は知的活動において、ただ邪魔な時間」とさえみなしていたという。

もっとも食事だけではなく、研究以外のほぼすべての活動が無意味なものに見えていたらしい。床に就くのも朝の短時間だけで、睡眠時間もろくに取らなかった。

休養という概念がないニュートンは、思考を巡らせながら、ひたすら歩き回った。その姿を見た人は、こんな証言をしている。

「靴のかかとは踏みつぶし、靴下のひもは結ばず、髪はぼさぼさだった」

外見に構わなかったところはアインシュタインと似ている。だが、2人には大きな違いがある。アインシュタインは女性好きだった。食欲の分が性欲にあてられたようにさえ思えるくらいだが、ニュートンは性愛にすら関心はなかった。フランスの哲学者ヴォルテールは、こう評している。

ニュートンは、長い生涯の間に、情欲を感じたことはないし、人類に共通の意志薄弱とは無縁で、女性との交際もなかった」

 

ろくに眠りもせず、食事もせず、人付き合いもせず。それでいて84歳まで長生きしたのは「自分にはやるべきことがある」という信念を持っていたからだろう。ほかのことに関心がなかったのは自然なことのようにも思えてくる。

ニュートンの生き方はまるで求道者のようだが、ノーベル化学賞と物理学賞を受賞したポーランド出身の化学者マリー・キュリーも負けていない。

家庭教師のアルバイトで学費を稼ぎ、家庭の貧しさから一時期は断念していた大学進学を果たすと、寸暇を惜しんで勉学に励んだ。ソルボンヌ大学理学部の学生は2000人近くいたが、女性はマリーを含めて20人程度だった。当時の社会がいかに女性を学問から遠ざけていたかがわかるだろう。

通学時間すらも惜しんだマリーは、同居していた姉がきちんと食事させようとすることにも苛立ちを感じていた。

マリーが食べた日常のメニューは、お茶、ココア、パン、果物。貧しさから卵や肉はほとんど食べられず、栄養失調で倒れたこともあった。それでも、マリーは学生生活をこう振り返る。

「生涯最高の思い出の1つだ」

大学にいりびたって、学問に没頭できる環境がただただ嬉しかったのである。家事よりも勉強に励んでいたため料理の経験は乏しかったが、物理学者のピエール・キュリーと結婚後は、そう言ってもいられなくなった。

何しろ、女性が家事をやるのが当然とされた時代である。必要に迫られたマリーは科学を習得した要領で料理も覚えていく。スープの作り方も知らなかったが、スグリのジャムなどを作りながら、料理のレシピを書き留めるまでになった。

夫ピエールも研究に没頭すると食に構わないタイプ

 

だが、ピエールも研究に没頭したら食に構わなくなるタイプだった。マリーがせっかく作った夕食も何だったか思い出せないこともしばしば。それどころか自分が食事をしたかどうかもわからなくなる始末だった。

やがて「研究だけをしていたい!」夫妻の相乗効果(?)によって、2人とも歯止めが利かなくなってしまう。

「あなた方はろくに食事をしていません。マリーがソーセージを二切れ食べただけで食後のお茶にしてしまったのを一度ならず見ましたよ」

こんなふうに、共通の友人から警告されてしまうくらいだ。さらにこんな忠告まで受けている。

「いくら健康に無関心であろうと、それは言い訳になりません。今のあなたの行動はまるで子どものようです。科学への没頭を生活に持ち込むことはやめるべきです。食事のときにまで、物理の本を読んだり物理の話をしたりしてはいけません」

しかし、聞く耳を持つ相手であれば、最初からそんな生活になっていないだろう。友人の警告に何の効果もなかったことは言うまでもない。

医学者で細菌学者の野口英世もやはり研究第一で、生活はメチャクチャだった。マリー・キュリーと同様に、子ども向けの偉人伝では必ずといってよいほど取り上げられるが、親として子どもが見習ってほしい人物かと言われれば、口ごもってしまう。

お金があればあるだけ使ってしまう野口。食事においても計画性はなく、とにかく手早く済まそうとした。店ではいつも同じメニューを頼んでは、ろくに味わわず、本を読みながらフォークで口に放り込んでいたという。

研究に熱が入れば、食事を抜くこともしばしばだった。夕方になって同僚から「家に帰らないのか」と聞かれると、こう答えたという。

「ここが僕の家だ」

そんな野口もニューヨークで知り合ったメリー・ダージスと結婚することで少しは家庭的になったらしい。妻の料理を手伝うこともあり、日本料理のすき焼きを教えたりもした。それでも相変わらず、いつも慌ただしく、食べている途中から顕微鏡を手元に寄せて、細菌をのぞいたりしたという。小学生のほうが、落ち着きがあるのでは……。

イデアが浮かぶと仕事優先になったベル

 

電話を発明したスコットランド生まれの科学者アレクサンダー・グラハム・ベルも、働き出すとその手を止めることができなかった。睡眠時間は3~4時間で、そのほかの時間はひたすら仕事に没頭して、妻のメイベルを困らせている。

子どもが生まれるのを機に、メイベルはベルに何とか規則正しい生活を送らせようと涙ぐましい努力をしている。午前8時30分には朝食を食べさせ、午後7時には夕食を取らせたうえで「夕食後の2~3時間は仕事をしない」というルールを作った。

ベルもそのルールを守ろうとはしたが、アイデアが浮かぶとやはり仕事優先になり、妻を失望させている。夢中になると歯止めが効かないのが、科学者という人種なのかもしれない。

科学を愛する偉人たちに「食事をいち早く済ませて、研究に没頭した」タイプが多いのは興味深い。もちろん、なかにはグルメな科学者や、大食いの科学者もいるだろう。だが、頭の中は研究のことでいっぱいだとしても不思議ではない。

物理学者の湯川秀樹も行きつけの店で好物のビーフカレーを味わいながら、思考の旅に出ていたようだ。自らの仕事について「平生の仕事は読むこと、考えること、書くこと、話すことなどである」としながら、「考える」はいつでもどこでもできることだとして、こう言っている。

「どんなとき、どんな所ででもできる。ご飯を食べながらでも考えられる。満員電車の中でもよい」

いつもビーフカレーを頼んだのは、決まったものを食べることで、思考の旅に出るスイッチを押していたのかもしれない。 湯川が贔屓にした 「丸太町東洋亭」(京都府上京区) には、 研究者仲間と来店することが多かったという。科学の議論にも花を咲かせたのではないだろうか。

好きなときに好きなものを食べていたエジソン

 

アメリカの発明家トーマス・エジソンの場合は、若いころには好きなものを好きなときに食べた。糖尿病を患っていたため、医師から食事制限を課せられていても、どこ吹く風で、こんなふうに言っている。

「医者の言うことを鵜呑みにしてはいくら身体があっても足らないよ。自分は化学に詳しいから、薬のことは医者よりよく知っている。身体に最もいいのは、こういった自然の中でもりもり好きな物を食べ、楽しく過ごすことさ」

だが、やがてエジソンは糖尿病とはまったく違う理由で、食事の量を減らすようになる。朝食は少量のラムチョップでトーストを1枚食べて、コーヒーを飲む程度。昼はイワシのフライを2切れに、アンチョビをのせたトーストを食べて、あとはリンゴと紅茶、デザートにアップルパイを食べた。夕食は野菜中心で、毎回、量は少ないがゆっくり、よくかんで食べたといわれている。

エジソンは「より少なく」食べようとした理由について次のように語っている。

「私は余分なガソリンは食わない」

腹いっぱい食べれば眠くなり、思考力も落ちてしまう。感覚としてわからないでもない。いずれにせよ、いつでもどこでも、自分の研究のことに夢中になれることが、1つの才能ではないだろうか。

(真山 知幸 : 著述家)

 

 

    アイザック・ニュートン - Wikipedia              

     最上の天界にいたニュートン、スエーデンボルグ著。

 

   

    

 

 

   

  youtu.be

       先ずは、知ることから始まります。

       貴方様の健康と霊性の進化をお祈りいたします。

 

                          蒼氓。

 

 

 

 

     キュリー夫人、史上最も世界に影響を与えた女性の第1位に選ばれる|ハーパーズ バザー(Harper's BAZAAR)公式

    

 

 イギリスの歴史専門誌『BBCヒストリー』が、10人の専門家によって厳選された「世界を変えた女性100人」をこのたびリストアップ。それを公式ウェブサイトやSNSで公開し、そのなかから「世界に最も影響を与えた女性」に投票するよう読者に呼び掛けたところ、世界で初めてノーベル賞を2度受賞したキュリー夫人ことマリー・キュリーがランキングの1位に輝いたそう!

     

 

 

        youtu.be

 

 

  

  youtu.be

 

   酒たばこ、はやらず。食事は減らしました。体重7ヶ月で―14キロです。

 

   体は、絶好調です。野菜中心の食事です。  

   やはり、知ることから、はじまりました。         

                心身一如です。               

                                   蒼氓。

 

 

 

無執着

  ある日訪ねた信徒が,上人が土鍋で白い汁を煮ているのを不審に思い,何ですかと尋ねると
弁栄上人 「これは白米のとぎ汁です。米の方は来客に出してしまったので, 今日はそのとぎ汁を飲んでいます」

 飯米がない。村人からあるいは甘藷、あるいは麦をいただいて飢えを凌ぎ、三日くらいは食べるものなき時もあった。お困りでしたろうと尋ねる人があれば、弁栄上人「時々断食してみると、身も心も軽くなり、よい気持ちです」

 冬も火鉢はもちろん布団もない。朝早く訪ねた人が上人のおつもりに藁切れが着いているのが可笑しく、わけを聞けば 上人「この頃は寒さが強いから、藁を着て寝ます」 良い下駄を供養するものがあれば辞退して、上人「坊主によいものはいりませぬ」

 弁栄上人 「預言ができるとか,病気がなおるとか,そんな奇蹟がなんの価値がありましょう。 凡夫が仏になる。これほど大きい奇蹟がまたとありましょう。」

 山崎弁栄上人は人々に阿弥陀如来の知恵と慈悲の光明のなかで念仏をとなえて生きていくことを教えた。自らの信仰を光明主義と呼んで、生涯、熱心な布教活動を続けて多くの帰依者を得た。山崎弁栄上人は他説を破邪することがなかった。上人にはすべてが完全に向かう姿と見えたのである。

 

 

 

              

                         

 

                 昔、感動して、泣きました。一文載せます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スペシャル メッセージ 「人のためになる分だけ寿命はある」

 

 

 

私は大阪時代、友人や先輩から研究実験の依頼を受け、自分の余った時間をすべてそれに注ぎこみながら、普通の人の五倍ぐらい仕事をしていた。

 

そういう生活を二十年ぐらい続けたお陰で、工学や医学などのあらゆる分野の知識を修得することができた。それが後に数多くの発明に役立ったことは、すでに述べたとおりである。

 

また、それらの発明も、特許を私物化せず、無償で社会へ提供いているとして、生命体から陰徳と認められ、寿命までも延ばしていただいた。

 

ありがたいことで、まさに「情けは人の為ならず」という諺どうりであった。

 

このように、

 

人のためになろう、人に幸せを与えようと努力していると、与えた分だけエネルギーが自分に返ってきて、自分の人間性が向上できる。

 

ここが大事なのだ、と私は思う。

 

六十歳を過ぎてから、私の身の回りに信じられないような奇跡が次々と発生し、最高の幸福を感じられるようになったとき、作用と反作用の原理は、物理的現象だけではなく、生命体の因果応報となって、精神的な面にもあらわれるということに、私は気ずかされたのである。

 

つまり、自分の人間性を向上させること。

これがこの世に生きる私たちの最高の幸せということになってこよう。

 

したがって、本当の意味で幸せになりたかったら、私たちは無条件で、しかも自分で意識せず、人に幸せを与えることではなかろうか。

 

自分の自己満足のために人々に幸福を与えようとするのであれば、それは人にとっても自分にとっても幸せではない。

単に、自分の欲望を満足させるにしぎないだろう。

 

その意味でいえば、意識して社会奉仕(ボランティア)をしようというのは、最大の欲望である。ボランティアは、するものではなく、自分の行為がそのまま社会のために役立つことである。

 

それが本当のボランティアというものであろう。

 

生命体のエネルギーは修行によって高められていく。真の修行とは、自分以外の人々に幸せや喜びを与える行為を積み重ねていくことにほかならない。

 

それによって生命体のエネルギーが高められ、自分の人間性が向上していったとき、その高められたエネルギーによって、私たちは常態の1000倍も1万倍もの力を発揮することができ、まさに「この世に不可能はなくなる」のである。

 

人に幸せを与えるエネルギーがある間は、間違いなく私たちの寿命もある。そのエネルギーがなくなったとき、少なくても私は、自分の寿命はなくなってもいいと思っている。

 

したがって、生きている限り、私は人のために尽くし続けていくことになるだろう。それが私の人生、生き方である。

 

 

 

 この世に不可能はない。より  工学博士、政木和三。

 

**********************************************************************************************

 

参考、

 

 

 

 

      youtu.be

 

 

 

       

   youtu.be

 

 

 

   

  youtu.be

 

 

  

       youtu.be

 

 

 

********************************************************************************************

備考、政木和三さん、シルバーバーチ、全く同じことをいっています。

               スバラシイデス      管理人。

*************************************************************************************** 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二章 霊性の喪失はここから始まった

 

           人間が堕落したもう一つの要素

 

 

精神的、文化的な発達が堕落の促進要素になつたということを理解するためには、幼児の精神の発達と比較しながら考えてみるとわかりやすい。

当初はただ霊魂の衣服としての肉体を持っていて、地上での生のために肉体感覚を最小限に与えられていただけなのが人間であった。しかし、そのような肉体感覚を使うことで、

人間は理性や想像力などのより高級とされる精神や意識の作用を発達させていった。

 

そしてその能力もやや間違った方向に使った結果として、

 

堕落を促進する要素のひとつになったのだ。

 

この過程は、たとえば子供が熱く煮えたぎったやかんに手を触れたとしよう、彼は肉体感覚によって、熱いと感じて手引っ込める。こういうことを繰り返すうちに、彼は熱いものに触れれば熱い思いをするということを知る。

これは手を触れることと熱いやかんなどの関係を理解するこであり、つまりこれが

 

理性の発達である。

 

このように肉体感覚から次第に人間は理性といわれるものや、想像力その他の心の作用を発達させていった。

 

しかし、

 

単なる理性なるものは肉体感覚がもとになって発達したものゆえに、霊的な知覚とは無関係で、単に物質的なことを理解するのに役立つだけのものである。

 

だが、人間は地上的になるに伴って、

 

この理性を誇るようになり、それを堕落の促進要素にしてしまったのである。

 

理性が堕落の促進要素になったということについては

 

読者は本書の中でこれから随所で気づくはずだから、ここでは詳しくいわないでおく。しかしイブは蛇にそそのかされて知恵の樹を食べさせられたが、はじめは蛇のそそのかしに首をふってためらった。しかし、最後には樹の実を食べ、さらに同じ実をアダムにも食べさせるという過程の中にもすでにその一例があらわれているのだといってよい。

 

イブは霊的、天国的知覚ではなく理性に従ったために、そのように行動したので、ここに働いたのは理性であった。

 

蛇の話のついでにいうと、私はよくこの蛇の故郷は多分エジプトであったという話をする。

 

蛇ももともとはエホバによってつくられたものであり、別に悪ではなかった。ただ物質的なことに関する能力(いうなれば理性)を表していて、その意味で賢く、

 

単なる低い善であった。

 

それが悪役になったのは、

 

低い善ばかりはびこることになったためであった。

 

また子ども話でいうと、最初子どもは裸で生まれてくる。しかし、その後衣服を着せられたりして文化的恩恵を与えられる。

 

人間もこれと同じで、時代が進むにつれ、さまざまな文化を発展させた。これ自体別に悪ではない。

 

ただ低い善であるだけである。

 

しかし、

 

これはあくまで低い善で霊的、天国的なものに対していえば、地上的、外的なものである。だが、人間はこういうことに喜びを感じるようになり、次第に高い善から遠ざかるようになった。

 

かつてエジプトでは、カナンと同じように人間の黄金時代がきた。

しかしその後、外面的な文化をもっとも華やかに発展させたのはエジプトであった。

そしてそれ自体は悪いことではなくも、

 

やはり堕落の促進要素になってしまった

 

私が比喩的蛇の故郷はエジプトだというのはそういう意味であった。

 

 

******************************************************************************

 

参考、 

 

聖書の解釈。スエーデンボルグ著。抜粋です。

 

すこし、難しいかも。?

高級な話ですが、理性について書かれています。 

①、②、は凄い話です。

 

 

 

 

 参考、

 

り‐せい【理性】の意味

 

1 道理によって物事を判断する心の働き。論理的、概念的に思考する能力。 .

 

2 善悪・真偽などを正当に判断し、道徳や義務の意識を自分に与える能力。「理性を失ってつっ走る」 .

 

3 カント哲学で、広義には先天的能力一般。狭義には悟性・感性から区別され、悟性の概念作用を原理的に統一・制御・体系化する無制約の認識能力。理念の能力。

 

 4 ヘーゲル哲学で、悟性が抽象的思考の能力であるのに対して、弁証法的な具体的思考の能力。 .

 

5 宇宙・人生をつかさどる基本原理。

 

 

  霊的、天国的知覚。高い善。

 

肉体(感官)よりの理性はたんなる、低い善であったことが言われている。

 

 

 

より高度な真理へ。

 

   真理は我々の理性に反するものではなく、我々の理性を超え、我々の比較を超えて、未だ曽て探査されたことのない領城に及ぶのである。

 

ゆえに貴下の理性で貴下自身を制限してはならない。貴下自身の欠如した理解力で貴下自身を限定してはならぬ。・・・

 

 

私論、

     肉体的理性は霊的真理が凌駕している。

 

      常識的、理性は普及など、など、

 

高度な霊的真理は理性を凌駕(超越している)している。

 

                                                             真理探究者。              蒼氓。

 

 

 中村天風の名言「広大無辺の大宇宙よりもさらに心は大きい」額付き書道色紙/受注後直筆(V2057) 書道 名言専門の書道家 通販|Creema(クリーマ) 

 

**********************************************************************************************

 

 

 

参考、

 

 

信仰と理性  

 

「神を感じるのは心情であって理性ではない。信仰とはそのようなものである。」

パスカルが言うように、信仰には理性を超えたところがある。古典的な三段論法を使えば、次のようになるだろう。

 もしも神がすべての存在に先立つ「存在」であり、われわれがその中に生きている自然も神の創造によるものだとすれば、まさしく神は自然を無限に超えていると言うべきである

ところで信仰とは、その神を信じることである。とすれば、信仰とはまさに超自然的行為に他ならない。  自然のものごとにさえ理性を超えたものが無数にある。

超自然的なことについては言うまでもないだろう。  だが、それは理性の役割を否定することでは決してない最初から理性を無視するようなら、それは信仰ではなく、迷信や盲信と呼ぶべきである

 

パスカルはこうも言っている。

理性の最後の歩みは、理性を超えるものが無限にあるということを認めることにある。それを知るところまで行かなければ、理性は弱いものでしかない。」

ただし、気を付けよう。これは理性を徹底的に行使し、理性によってとらえられる限界までものごとを追求することを前提として述べられているのである。

その上で、理性は自らの限界を認め、限界を超える領域については、心情のはたらきにゆだねる ―― これこそ、すぐれて理性的行為と言うべきだろう。

 

警戒すべきはむしろ「理性を排除すること」と「理性しか認めないこと」という「二つの行き過ぎ」である。  

 

信仰と理性は両立できないというのは、だから間違った先入観である。

だれも自分が知らないことについては確信がもてないように、信仰も、学び知る努力を伴わなければ人は神を信じることもその教えを受け入れることもできないのである。

より良く知ることによって理性が納得し、心情が同意したとき、はじめてそれは深い信仰となりうる。

パスカルにならって言えば、「理性の服従と行使、そこに真のキリスト教がある。」

 

 

 

 

                     計算機と物理学について考える方法 『パスカル科学論集』決定版|じんぶん堂

                         パスカル