真理との邂逅 高級霊のメッセージ

友よ、歩み入る者に、霊的真理を、去り行く人に幸せを、住まう者に霊性の進化を。   蒼氓。

Q,ある人は汚いスラム街に生まれ、またある人は美しいものに囲まれた環境に生まれますが、こうした不公平はどうなるのでしょうか?

 

 

 

あなた方の誰もが、富んだ生活や貧しい生活を等しく経験してきています。

 

大切なことは、その経験が魂の進化を促すことにあるのです、そうした機会はあなた方すべての人々に等しく与えられています。

 

そうした環境は物質的ものさしで言えば不公平と見えるかもしれませんが、肝心なことはその環境を通じて「魂の因縁」を解消していくことにあります。

 

因果律は魂の進化のためにあります。

 

環境が厳しいほど魂は強くなり、悟りは環境との闘いの中から生まれるのです。

 

そのことを知る偉大な霊魂はあえて厳しい環境を選ぶことがあります。

 

 「古代霊は語る」シルバー・バーチの霊訓より

                                                                       近藤千雄訳編

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備考、

魂の因縁、因果(カルマ)、因果律は魂の進化のためにある。

環境が厳しいほど魂は強くなり、悟りは環境との闘いの中から生まれるのです

そのことを知る偉大な霊魂はあえて厳しい環境を選ぶことがあります。

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多くの信者が集まり宗教組織がつくられるようになると、人間の持つ煩悩が当初の純粋さを失わせていくことになります。

 

地上の組織は規模が大きくなると、役割分担に基ずく組織活動が避けられなくなります。それにともない必然的に組織内に上下関係が生じることになります。また組織を維持し布教を推し進めるために多額の資金が必要となり、資金調達がメンバー(信者)にとっての重要な仕事の一つとなるのです。

 

やがていつの間にか自分達の宗教組織を大きくすることが、そのまま地上人類を幸せにする道であると説かれるようになり、メンバーは教団の拡大が"神の意志”であるかのごとく思いこむようになっていきます。そして神の意志/人類救済大義のもとで、教団拡大のために時間とエネルギーの大半を費やすことになります。自分達は特別な役目を担っているとの優越心・特別意識が、信者の活動を支えるのです。こうしたことが、いずれの宗教教団において見られます。

 

しかし地上の宗教につきものの組織拡大の活動は、その宗教の霊的生命を徐々に奪い去っていくことになります。資金調達や布教のための活動、結局は組織自体を衰退に追い込んでいくことになるのです。地上の組織は規模が大きくなればなるほど必ず形骸化し、霊的生命を失い、単なる拘束のための手段に成り下がってしまいます。そして、この世の一般的な組織と同じような権力・金が物を言う世界がつくられることになります。これが大半の宗教がたどってきた共通のパターンです。こうした世俗的な流れに飲み込まれることなく霊的生命を保ち、純粋な信仰を全うしてきた宗教団体は、ほとんどないといっても過言ではありません。純粋な内面的信仰を求めている人々は、そうした宗教組織の中では存在することができなくなっていきます。組織の拡大のために実績をあげることが"信仰の証”として重要視されるようなところでは、霊的成長は片隅においやられていまうからです。「自分の魂を向上させたい!」と切望する人々は、いずれその宗教に魅力を失い、自分の居場所がないといった状況に置かれるようになります。

 

          

       霊的生命を奪い去る地上の宗教組織

 

       スピリチュアリズム普及会   抜粋

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十二章 地上での霊の介入

 

 

 

     吾々の思想や行為に霊が及ぼす影響

 

(459)

霊は私共の思想や行為に影響を与えますか。

 

「その影響は諸君が想像するより大きい。諸君の思想も行為も、これを動かしているのは霊達であるから」

 

(460)

私共は、自分自身から生まれる思想と、他より伝えるられる別の思想とをもつのですか。

 

「諸君の魂は、思考する霊である。諸君等はこれまでに、同じ問題についても、多くの思想が、時としては

丸反対の思想が同時に起こることも知っておろう。その場合、そのあるものは諸君自身のものだし、あるものは吾々霊のものである。これが諸君等をためらわせる、諸君等はこのように心中に互いに相対立する二つの観念をもつものであるから」

 

(461)

どうしたら自分の思想と、外部から受け取った思想を見分けられますか。

 

「外部から思想が来る時は、ささやきかける、声のような具合にである。

自分の思想の場合は、先ず心内に湧き起こるものである。実は、この区別は諸君等に、実際上は重要ではない。区別できないことの方が諸君のために良いことが多い。

これにより、人間の行動は大いに自由になるわけだ。もし正しい道を選べば、いっそう自発性を発揮することになり、誤った道を選べば、はっきり自分の誤りの責任となるから」

 

  霊の書(上)アラン・カーデック編 桑原啓善訳

*******************************************************************   備考、「霊の書」はフランス人カーデックの手を経て受信され、フランス語で発表され、そのため仏・伊・スペイン・ブラジル等ラテン系国民の間に拡がったものである。しかも、その発行部数はおそらく四〇〇万部をこえ、特にブラジルではその信奉者が二〇〇〇万人とも言われる、空前の影響力を与えた霊界通信である。 訳者 序から。

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備考、 まさに驚異の書である。

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第2部「スピリチュアリズム霊的知識と教え 」    

 

 

(四)地上人の心と霊肉関係

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脳と本能

 

さて肉体の”脳”ですが、これは霊の心の意識(霊的意識)に対する受信機であると同時に、肉体に対してはコントローラの働きをしています。脳から発生する”本能”によって、肉体の維持存続がはかられます。肉体維持のために必要な欲求は、本能から発します。食欲・排泄欲・生存欲・種族維持欲・性欲・母性本能などによって、地上の動物はその種を維持存続させているのです。

 

このように、私たちの肉体生命は、脳から発生する本能の欲求によって維持されるようになっています。本能はどこまでも、その個体の維持をはかるという目的を持ち、その個体の維持のためにのみ働きます。それゆえ本能は、常に”自分自身のため”という方向性、自分中心の方向性を取るようになります。

 

こうした本能は動物にもあり、それが人間と動物の共通部分となっています。動物には、人間のような「霊の心」も「霊的意識」もなく、肉体本能だけがあります。したがって、もし人間が「霊的意識」を全く持つことができなかったり、それを感じ取ったとしても無視して肉体本能の命ずるままに生活するなら、霊的要素のない動物と同じ状態になってしまいます。まさに本能的人間・動物的人間になり、霊的存在とはいえなくなってしまいます。

 

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観無量寿経(像想観)の中の一文、すなわち、

 

 

如来はこれ法界身なり、一切衆生の心想の中に入る」

の文における「入ー一切衆生心想」が、実にそこから限りなく創造活動がいとなまれていく根源的な契機となっているのである。念仏とは、そして、念仏三昧そもののいとなみとしての芸術的な創造活動とは、不断の自己脱却に即しっっ念々に根源者(阿弥陀仏=法界身)に直結し、そこからの心想への流入がそのまま人間の創造活動となっているのである。芸術かつどうとは元来、決して単なる人間の主観のいとなみの次元にとどまるものではなく、かかる主観主義を限りなく超え出ていくところにいとなまれてゆく行為なのである。三木清も論じた「構想力」の問題も本来的にはかかる宗教的超越的な実践の地平と関わっているのである。弁栄上人の縁にあった多くの人たちもかかる上人の芸術作品に触れることによって、実に阿弥陀仏のはたらきそのものに触れていたのである。そしてそれぞれにみずからの信仰に目覚め、その信仰を深めていったのである。

 

       山崎弁栄上人

          ーー その生涯と宗教芸術 ーー

                                 川波昌

                            

                             抜粋

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              光明主義用語集

 

法身(ほっしん)理法の御身。宇宙全体一切のものは宇宙大霊が自分の理法のままに発現されたもの故に

宇宙大霊は大宇宙内の一切を生み、統一摂理し給う超在の一体神に在し理法の御身に在す故に法身とお呼びする。  産みの御親

 

 

阿弥陀如来阿弥陀佛  無限の大宇宙を身とし心とし給う御方で、一切諸仏の諸菩薩あらゆる神々及び私共一切衆生の本元の親様であり諸仏を統摂し一切万行の帰趣する所の御方即ち独尊統摂帰趣に在す御方。法身・報身・応身の三身即一に在す最も尊き唯一の如来よ」とお呼びするのは親様であらせられる如来様のお徳の表明。光明主義においてはその如来様のことであって西方浄土に在する諸仏のなかの一佛としての阿弥陀如来ではない。従って私共が南無阿弥陀仏と帰依し奉るのも従来の所謂阿弥陀佛ではない。

 

 

 

 

 

 所謂=いわゆる

 

 

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       人生の帰趣 0208

 

(二)統摂

 大霊は宇宙の大法を以て万物を統一摂理するを云う。

 

 

 統摂と帰趣ーーーー 一切知と一切能

 

独尊統摂帰趣の三義云うも大霊に体が三あるのではない。

 

独尊なる大霊が一切万物に対して基法則を以て能く秩序を整へ条理を為さしむると万物を生成する勢力とにて、言う換(か)ふれば大霊の一切知と一切る能との二属性を有つて居る事にて、更に小さく人間に例して云はば知覚と運動の二性を有する人であると云う様なものである。

 

統摂。

 

天地万物が行はれて自然の法則がこ基常規を違はず細大となく行はれゆくは万物内在の智慧が存在するからである。

例えば人間に理性があるから物の秩序が判る如く万物中に自ら完全な理性云ふべき性が存在するから天体の星雲が運行するにも基秩序を失はず如何に細少生物の生理に至る迄も自然法則がきちんと定つてゆくのは大霊の一切知が万物に内在する故に物のきまりが立つてゆくのである。

 

理性的に物の秩序を為し條理を為して行くが一切知なので而して一切の生物の為めに内外の力と為りて自らも活動し外からも力を与えて生成養育せしむるのが一切能と云ふ。

 

是万物が活動するの一大原動力は大霊の勢力より発現するので此勢力を以って万物生成活動する故に万物が基結果として終局に帰着することが出来る。

 

一切知と一切能との二属性が一切万物に対して統一摂理し生成帰趣するの性能となるのである。

 

法は即ち法理の事にて仏教にて法爾の理と云う又自然の理と云うも同じ事にて、火は熱くして物を焚き水は潤ふて低きに流るなど総て物理学上に説明する処、物の理法又植物の理と云えば枝葉根茎を為す処のきまり又生物生理の営養生殖の理法にも自然の法がきまって居る。

 

眼は色を視耳は声を聴き舌は味ひ鼻は嗅ぐ等の感覚、又苦楽を感じたり物の差別を認識し得る智慧等の心の理法も皆心理としてきまりて心の働きをなす事、

 

唯識論抔には眼耳鼻舌身意色声香味触法の法から乃至百法を以て人の心理上の相を説明している仏教で万物には自然に眼は物を見

 

又火は物を焼くと云ふ如き物理にても心理にても自然法爾の理と云う物はすでに具有して居る事を法とも理とも名づけてある。

 

其一切万法の一大限則であるから法身如来とも名づくるのである。

 

法身は万物に其法爾自然の理を具有して万物を各其理法に随つて其働きを為して摂理するのである。

 

            人生の帰趣 山崎弁栄

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                                                                               僭越ながらここに記す 蒼氓。

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物質のみ重視した霊。 快楽の追求に人生を費やした、ある遊び人の後悔

 

1862年4月19日、ポルドーにて。

 

「私を体に結びつけていた鎖が切れたらしく、前よりも辛さは薄らいだように感じられる。とうとう自由になったわけだが、罪滅ぼしをしなくちゃいけないのは合点がいかない。でも、これ以上、苦しみを長引かせたくなかったら、無駄に使った時間を埋め合わせなくてはいけないわけだ。誠実に悔い改めさえすれば、神がそれを見て私を許してくれるに違いない。

私の為に祈ってください。どうか、お願いします。

友人達よ、私は「自分さえよければいい」と思って生きてきた。そして今、贖罪をし、苦しんでいる。私が怪我をしたトゲで、あなた方もまた怪我をしないように、神の恩寵を祈るばかりだ。主に向かう大道を、どうか歩いていってください。そして、私の為に祈ってください。ああ、私は、神が(貸して)くださった財産を自分の為だけに使ってしまった。何ということだろう!

動物的本能に従う為に、神が与えてくださった知性とよき感情を犠牲にした者は、まさしく動物と同じで、厳しい扱いを受けても文句を言えない。人間は、自分に(委託)されて財産を、節度を持って使わなければならないのだ。

人間は、死後に自分の持っている永遠の観点から生きなければならない。したがつて、物質的な享楽への執着から離れる必要がある。食事は活力を得る為であるし、贅沢は、社会的地位に見合った程度に留めるべきなのだ。生まれつき備わっている嗜好や傾向性も、理性によって統御されなければならない。そうでなければ、浄化されるどころか、ますます物質的になってしまうからだ。欲望は紐のように人間を締めつけるものだ。欲望を募らせて、その紐をさらにきつく締めてはいけない。

 生きるのはよいが、遊び人として生きてはならない。霊界に還った時に、それがどれほど高くつくか、地上の人間達には決して分からないだろう。地上を去って神の前に出る時は、素っ裸にされて何一つ隠すことは出来ない。地上で何をしたかが、全て明るみに出されるのだ。

だから、つまらない欲望に振り回されることなく、ひたすらに善行を積むことをお勧めする。思いやりと愛に満ちて生きてほしい。そうすれば、そちらからこちらに来る時も楽に境界を越えることが出来るはずだ」

 

霊媒の指導霊からのメッーセージ:「この霊は、正しい道に戻りつつあります。というのも、悔いあら為を行っているだけでなく、自分が辿った危険な道を辿らないようにと、あとから来る者達に教えているからです。間違いを認めること自体、既に大したことですが、他者に奉仕することで、さらに善に向かって一歩進むことが出来ればもっとよいのです。

だから、この霊は、幸福とまでは言えないけれど、もう苦しんではいません。彼は悔い改めを行いました。あとは、もう一度、地上で転生し直して、償いを果たしさえするばよいのです。ただし、そこに至るまでには、まだ経験しなければならないことが沢山あるでしょう。

「自らの霊性のことなど考えず、ひたすら官能的な生活を送り、やることといったら新たな快楽を発見するだけ」といった生活を送った人間が、霊界でどのような状況に置かれるか、あなた方には分かったでしょうか?

物質的な墓の彼方まで付きまとい、死んだからといってすぐ欲望が消えるわけではないのです、地上にいた時と全く同様に、自分の欲望を満足させる手段だけを探し続けるのです。霊的な糧を探したことのない彼らの魂は、霊的な糧しかない霊界にあって、果てのない砂漠の中を彷徨う人間と同じように、完全な空虚の中を、あてもなく、希望もなく彷徨い続けることになるのです。

肉体を喜ばせることばかりして、精神的なことに一切関わることがなかったので、当然のことながら、死後も、霊が本来果たすべき仕事には全く無縁となります。肉体を満足させることは当然出来ず、かといって、どのように霊を満足させればよいかも分からないのです。したがって、絶望的な退屈に陥り、それがいつ果てるとも知れません。

そこで、それくらいなら、むしろ消滅した方がよいと思うのです。ところが、霊を消滅させることは出来ません。肉体は殺すことは可能ですが、霊を殺すことは出来ないからです。したがって、彼らは、そうした状況に飽き果てて、ついに神の方に目を向けることを決心しるまでは、そのような精神な拷問の中に身を置き続ける他ないのです」

 

 

                                   霊との対話

                                               アラン・カルデック

 

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「一心法界三昧」弁栄上人は24歳のとき筑波山に二ヶ月こもって日夜念仏を唱える修行をおこなった。」

 

 

米麦そば粉で飢えをしのぎ、口で念仏を唱え、阿弥陀仏の姿を心に思い浮かべ礼拝すること、毎日、ついに一心法界三昧を会得した。

 

弁栄上人の説明によると「一心法界三昧」とはこの宇宙に存在する森羅万象のすべてが自分の心の中にあることを悟ることだという。

 

自己と他人の区別、自己と環境、さらに時間と空間の制限を越えた世界、二元性を超えた法界と自己の心が溶け合って一つになったのが法界心である。その法界心そのものになったというのである。

 

一つだから、自他の区別はなく、そこには内側も外側も中間もないのである。

 

我々がなぜ心の中に宇宙のすべてが存在する事が見えないかというと自我の観念に覆われているからだと言う。

 

我々は肉体や思考や感情を自己と思い込んでいるのである。今まで自分の外側に見ていた森羅万象が内も外も区別がなくなり、あるがままに映し出されていることを大円境智と呼ぶ。

 

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 不殺生の行為

 

蛇が衣を這い上がり、猿が無心に戯れる中、弁栄聖人は体はやせ衰え垢だらけ、髪も髭もぼうぼうになって窟に篭り、一日に十万回の念仏を称え、虚空を我が心とした我々のような凡人にはいくら想像しても想像できない境地だという。

下山して支援者の家に立ち寄った時、汚れた肌着に虱(しらみ)がうようよしていたので家人が熱湯をかけて殺そうとした。弁栄上人は「そのまま裏口に干しておいてくだされば、虱はてんで好きな方えいってしまいます。」と言って家人が虱(しらみ)を殺そうとす行為を止めさせた。その後も古くなった着物に虱がわいても決して殺さず日向に出してその去るのを待った。

また、刺した蚊を潰す者を見ると弁栄上人は「そうしてたたくと蚊の針の先が体に残って毒になります。そっと追うと針を抜いて去ります。」と諭した。弁栄上人の歌「やみのよになける蚊のこえかなしけれ血をわけにけるえにしおもえば」

手足を蚊にさされても弁栄上人がじっと血を吸わせて追われもしないので「お上人様蚊が」と申し上げると「命がけでくる蚊です。血の一滴や二滴供養してもいいでしょう。人はわずか蚊一匹のために五尺の体がとらえられて鬼の心になる。そして蚊を殺したと思っているが、自分の大切な霊性を殺していますね。」と静かにお話になった。それまで蠅たたきをつくってまで殺しまくっていた求道者たちはそれから蠅も蚊も気にしなくなったという。

 

歩く時は道に這う蟻を気をつけて避けて通られる。子供がこれにいたずらをしている所を見ると、「蟻さんの子や兄弟が泣きますよ」と丸みのあるやさしい声をかけられた。

 

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無執着

 

 ある日訪れた信徒が、上人が土鍋で白い汁を煮ているのを不審に思い、何ですかと尋ねると弁栄上人「これは白米のとぎ汁です。米の方は来客に出してしまったので、今日はそのとぎ汁を飲んでいます

 

飯米がない。村人からあるいは甘藷、あるいは麦をいただいて飢えを凌ぎ、三日くらいは食べる物なき時もあった。お困りでしたろうと尋ねる人あらば、弁栄上人「時々断食してみると、身も心も軽くなり、よい気持ちです

 

冬も火鉢はもちろん布団もない。朝早く訪ねた人が上人のおつもりに藁切れがついているのが可笑しく、わけを聞けば上人「このごろは寒さが強いから、藁を着て寝ます」

よい下駄を供養するものがあれば辞退して上人「坊主によいものはいりませぬ

予言ができるとか、 病気がなおるとか、そんな奇跡がなんの価値がありましょう。

凡夫が仏になる。これほど大きい奇跡がまたとありましょう。

 

山崎弁栄上人は人々に阿弥陀如来の知恵と慈悲の光明の中で念仏をとなえて生きてゆくことを教えた。自らの信仰を光明主義と呼んで、生涯、熱心な布教活動を続づけて多くの帰依者を得た。山崎弁栄上人は他説を破邪することがなかった。上人は全てが完全に向かう姿と見えたのである。

 

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 慢心

 

霊験を求めていた婦人が弁栄上人に帰依し45年間精進してなんらかの霊験を得るようになった。そのうちその婦人は自分の境界を吹聴するようになった。

能力をひけらかす自己評価欲求がみたされていないからで、「私をみて、私てこんなにすごいのよという行動パターンを取ってしまう。慢心もすぎれば問題を起こすのである

上人「三歳の子供だ正宗の名刀を振り回しても自他ともに傷をつくる。」

上人「水晶のコップでも穴があっては役に立たぬガラスのコップでも無疵(むきず)のものがいい」

 

 弁栄上人は自分から世間話をされたことはなく新聞にある出来事を申し上げても「左様で」と低い声で簡単に受け答えされるだけっだった。弁栄上人があまりにもおごそかだなので、窮屈かと思えば終始なごやかで親しみ深かったという。無駄口一つされずいつもニコニコされていた。

 

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弁栄上人の心境

 

不動明王を信仰する行者が

「私はときどき亡者を見ますがあなたもさだめて亡者をご覧になるでしょう。」と申し上げると

上人「いや私は生き者ばかりが相手ですから、亡者はみません。」と話された。

 

一般的に超能力や霊的な現象のあるところにはそのことに興味を持つ者が集まってくるものだ。弁栄上人は決して自分をひけらかす事をしなかった。弁栄上人はひたすら光明のただ中にいた。しかし侍者は弁栄上人の天眼が開いていことを知っていた。

 

江戸川べりを通っておられると急に立ち止まって合掌念仏された。従者がその理由を尋ねると水辺に水死体があるといわれる。従者がこれを村人に話すと丁度水死した人が上がらずに困っていた。その場所を探した所果たして溺死したい発見された。それを話されても弁栄上人は振り向きもせず、「ほうそうですか。」

 

  ある夜、「この寺で、三十歳くらいの肥った婦人が亡くなったことはないか」と尋ねられた。この寺では先代の住職の妻が臨終のとき苦しんで若くして亡くなり、あと追ううかのように続いて住職も亡くなっていた。念仏を唱えている弁栄上人の心鏡にそれが映ったのである。

 

 無限の光

 

弁栄上人はいかなる時も「それは困った。」などと言われることはなく、都合の悪いことにもよい事にも「それが良い、」「それで良い」としかお答えにならなかつた。

 

弁栄上人による涅槃とは生死の夢から覚めて真如の光が現れることだという。

私たちは無限の光と無限の命の世界からやって来てそこえ又帰る存在なのだ。正覚とは太陽が出て、心の夜が明け、今まで見てきた娑婆世界が消え宇宙全体が真実に輝いて、光明に満ちた蓮華蔵世界が現れることだというその絶対なる世界が弥陀無量光如来のことだという弁栄上人は阿弥陀仏を諸仏の中での一仏ではなく、宇宙の大生命そのものととらえた

 

念仏について弁栄上人は「心が阿弥陀に同化した上はたとえ念仏を唱えなくても一切の行為が念仏となる。阿弥陀の業が行為に表れるのならばむしろ立派な行為である。念仏とは口で唱えるだけではない阿弥陀の心より出る行為は口で唱える以上の念仏である。従来の念仏者はただ口ばかりを重く見て仏の行為をしないのは発展度が低いことだ。」と語った。

 

阿弥陀の語源はサンスクリット語のアミタユースあるいはアミターバが語源だがアミタは「無限」アユースは「寿命をもつ」の意味なので無量寿という中国語訳があてられた。アミターバはアーバの意味が「光持つ」なので無量光と訳された。阿弥陀は意味を訳さず音を漢語にそのまま当てはめたのである。そうすると阿弥陀の世界とは死んだ後の世界のことではなく、この宇宙そのものをあらわしていることになる。

 

 

 

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弁栄上人は明治の人であり、その教えは仏教用語に満ちており、我々凡人には難解である。

その霊性の高さは計り知りえない。尊敬する人物の一人であり、これほどの聖者の存在を知りえただけで感謝しております。 

 

光明高校の創設者で、昔、訪ねた時に、光明高校の校庭に上人の銅像がありました。 

    

 この方の伝記を読むたびに、めがしらがあつくなり涙がこぼれてしまいます、少なからずとも私の人生に大きな影響を与えた人物です。

 

 

 僭越ながらご紹介させていただきました。               

                       蒼氓。

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「預言ができるとか、病気がなおるとか、そんな奇蹟がなんの価値がありましょう。凡夫が仏になる。これほど大きい奇蹟がまたとありましょう。   

 

 

                   山崎弁栄聖者。

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引様・参考文献

イーハトーブ心身統合研究所

山崎弁栄上人

光明修養会

 

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