87. 人は神を知るためにこの世に生まれてくる
これは「随想」(68) の「神を知るために生まれる」の中でも触れているが、むかし、文部大臣賞の『カキツバタ群落』など多くのすぐれた作品を書いた作家の田中澄江さんは、「神を知るために」と題する文のなかで、「自分は、どこから来て、どこへゆくのか。自分は何をしに、この世に生まれて来たのか。物ごころついて以来、心に持ったはずの問いかけを、まだ、私は持ちつづけ、まだ、問いつづけている」と書いた。
そしてこう続けている。 二十三歳のとき、芝白金三光町の聖心女子学院の教師となり、マザー・ラムという英国人から公教要理の講義を受けた。開口一番、ひとは何のために生まれましたか。神を知るためですねと言われたとき、大粒の涙が机の上にぼたぼた落ちて、そうだ、本当にそうだ、神を知るために生まれたのだと、全身で叫びたい思いになった。以来半世紀を経て、いまだにその感激が胸の底に燃えているような気がする。 (「朝日」1991.3.11)
同じようなことを内村鑑三も『一日一生』(教文館、1986)のなかで書いている。
財産は無くしてもかまわない。人に棄てられてもかまわない。病気になっても、死んでもかまわない。しかし、神から離れることは出来ないと、つぎように述べた。
「神はわがすべてなり。神を失うてわれはわがすべてを失うなり。われらに父を示したまえ、さらばたれり。わが全生涯の目的は、神を見、彼をわがものとなすにあり、その他にあらず。」
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引用、
武本昌三サイト。ともしびより。