その牧師には夫人の他にもう一人、学校で宗教教育を担当している女性が同伴していた。
その女性が尋ねる───
───私はあなたの霊言集を読み続けております。その中のどこかであなたは、人格神は人間が発明したもの以外には存在しないとおっしゃっています。
〝大霊とは法則です〟
と述べておられるのですが、
別のところでは
〝未来永劫にわたって神の愛と愛の神が存在します。
皆さんが愛念を表現するごとに神がみずからを顕現なさるお手伝いをしているのです〟
とも述べておられます。
これらの表現や他のもろもろの言い回しを拝見しておりますと、
私にはあなたは神を人格を具えた存在であるかに表現しておられる印象を受けるのですが、その辺を明確にしていただけないでしょうか。
分かりました。
でも、これはとても難しい問題です。
なぜならば、無限なる存在を有限なる言語で定義することは事実上不可能なことだからです。
大霊は人間が考えるような意味での人物的存在ではありません。
人間を大きく拡大したような存在ではありません。
男性でもなく女性でもありません。
大霊は宇宙最高の力、無限の知性、愛、慈悲、叡智、要するにありとあらゆる
霊的資質の原理の総合的化身です。
が、その概念をお伝えしようとすれば、どうしても人間の言語を使用せざるを得ません。
もしも私が大霊のことを中性名詞で〝それ〟と呼んだら、男性名詞で〝彼〟と呼ぶよりもさらに厄介な問題が生じます。
物的世界は、他のすべての世界と同じく、絶対不変の摂理によって支配されております。
その摂理は無限の過去から存在していましたし、これからも無窮の未来まで存在し続けます。
予期しなかった事情が生じて改めざるを得なくなることはありません。 これまでの摂理では間に合わない新たな事態が生じるということも絶対にありません。
その作用は完ぺきであり、停止することも、無効になることもありません。
無限の知性によって考案されたものだからです。
生命の存在するところには必ず摂理が働いております。原因には必ず結果が生じます。タネ蒔きには刈り取りが付随します。その因果関係に干渉して、生じるべき結果を変えてしまうような力をもつ存在はありません。
地上世界のどこで何が起きようと、それも摂理のもとに生じています。
突発事故も偶然の出来事もありません。大自然の摂理はありとあらゆるものを包摂しております。
こうした事実は、その背後に崇高なる知性が存在してそれが摂理を生み出し、万物の全側面と全活動を維持・管理していることの証ではないでしょうか。
同時に又、その全摂理を通じて愛が支配し、従って完全なる公正が行きわたっているに違いないことを暗示してはいないでしょうか。 悪いことをすればそれ相当の罰が与えられるように、善いことをすればそれ相当の報いがもたらされます。
死の床での牧師による最後の儀式も、自然の摂理の働きを変えることはできません。いくら誠心誠意の祈りであっても、それだけで摂理が変えられるものではありません。いかなる教義を忠実に受け入れても、摂理を変えることはできません。
なぜならば摂理は完全な公正が行きわたるように働かねばならないからです。
あなたの行為が招いた結果を代わりに背負ってあげられる人はいません。
あなたのすること考えることの一つ一つにあなた自身が責任を取らねばなりません。
聖人と罪人とが同じ霊格を具えるようなことはあり得ません。
霊格をごまかしたり偽ったりすることはできません。
そこに神の意志があり、神とはそういうものなのです。
あなたは〝人間性〟を問題にされましたが、神はあらゆる人間に内在しているという意味では人間性があると言えます。
が、
神は摂理であるという意味においては非人間的存在です。
ましてや、
自分を信じる者は可愛がり、信じない者には意地悪くするような、そんな恨み深い神さまではありません。
摂理によって原因と結果とがきちんと定められております。
神はあなたの中に存在するのです。
受胎の瞬間から神性の種子が植え付けられているのです。それに芽を出させ、花を開かせ、豊かな実りをもたらすためのチャンスは、日常生活の中でいくらでも用意されております。
すべてが神がふところの中で行われている、という言い方は正しいでしょうか。
結構です。
神はあらゆる場所に存在します。神のいない場所というものは存在しません。
四章 既成宗教のどこが間違っているか ───キリスト教を中心に
シルバーバーチの霊訓(十一)
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