私はしばしば霊の訪問を受けたとき、やってきたのは初めはひとりの霊かと思っていた。しかし、よくたしかめてみると、多くの霊が同時にやってきていたのに気づくという経験をしてきた。
彼らは、私とまるでひとりの霊のように受け答えするのでひとりと思ってしまうのだが、実はそうでなかったということが多かったのだ。これも彼らが、共通のものをつくりだしているためだった。
いまのヴィジョンとはやや違って、一種の雰囲気とでもいうべきものをつくりだしているわけだ。また、これは個々の霊ばかりではなくて、ひとつのグループの霊が共通のものをつくりだす。霊がそれぞれ自分の団体に属して生きていて、そのそれぞれの団体は、それぞれの団体に特有な雰囲気を所属の霊の全員に共通のものとして、つくりだしているということになろう。
霊は、個々の霊においてもグループにおいても心によって、いま述べたようなものをつくりだす。
そしてあるグループが共通につくりだしているものが、すなわち何度も述べてきた霊界のそれぞれの団体だと考えればわかりやすいに違いない。
また、霊がつくりだすいまのような雰囲気なるものは、人間にもかなり大きな影響を与えるものだ。
大ていの人はそれに気づかないが、私はそのような影響をいつも実際に見もし、感じもしてきた。
そしてそれはある場合には雰囲気で終わることもあれば、ある場合には目に見えるヴィジョンとなってくることもある。
天国の霊、とくに最上界の天国の霊が近づいてくるときには幸福な気持ちになるなどというのは、霊がつくりだしている雰囲気のせいにほかならない。
また同時に、これはヴィジョンを伴って現れることも多い。小さな赤ん坊がミルクを飲んでいるといった平和で心なごむヴィジョンが現れたりするときには、私の体験では、いつも心の無垢な上位の天国の霊がやってくるときであった。
霊の無垢なる心が、そういう形にみえるヴィジョンを生み出すのであった。これはどんなタイプの霊の場合も同じで、たとえば理知ににすぐれた霊が現れる場合には、それを示す知性の勝った鋭い顔つきの人物が、見えてきたりするといった具合である。
続、スウェデン・ボルグの霊界からの手記
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備考、
曼荼羅は何を意味しているか、
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