「スピリチュアリズム」といった用語は、ただの言葉に過ぎません。
私たちは、言葉に関心がありません。
言葉というのは、観念や真理を表現する道具にすぎません。
私たちとしては、霊の力(あなた方がいう神、私のいう大霊の力)が地上のどこでもよいから根ずいてくれることを願っているのです。
私たちが行うことの背後には、必ずそうゆう目的があるのです。
なぜ霊力を根ずかせたいか?
それは魂の琴線にふれさせ、本当の意味で生きがいを感じさせてあげたいからです。
それがどこであってもいいのです。
教会のなかであっても、教会の外であっても、家庭内であってもよいのです。
目標とするのは個々の魂です。
手の届くかぎりのところで行います。
物的な眠りから覚める段階に来ている者のほうから、あなた方のもとを訪れる場合もあるでしょうし、あなた方のほうから訪れて、霊的真理の種子を植えつけることもできるでしょう。
もしも効を奏さなかったら、涙を流してあげなさい--------自分のためではなく、種子が根づかなかった人のためにです。
せっかくのチャンスなのに、それが生かせなかったのですから・・・・・・
しかし、根づく条件の整った人は、そこここにいるものです。
やがて芽を出し、花を咲かせ、ついには美と愛の結晶を実らせます。
神性を帯びた種子だからです。そのときはじめて真の自我に目覚めたことになるのです。
地上生活のそもそもの目的は、人間存在の全側面、すなわち物的資質、精神的資質、霊的資質を発現することであり、それがまんべんなく発現されるまでは、自己実現ができているとはいえません。
肉体と精神のみで生きているだけです、幻影を追い求め、実在を知らずにいます。
それが霊性に目覚め始めると、霊的資質の開発と冒険へのドアを開くことになります。
それが地上に誕生した、そもそもの目的です、
魂が、真の自我を見出すためです。ですから、大切なのは、
どういう場で真理に目覚めるかではなく、
真理に目覚めるということ、
そのことです、地上生活に苦痛と悩みが絶えないのはそのためです。
つまり、もはや物的なものでは解決のつかない窮地に追い詰められ、霊的なものを受け入れる用意が整うのです。
バイブルにも「風はおのが好むところに吹く」(ヨハネ3)とあります。
どこでもよろし、吹きたいところを吹いていればよろし。
受け入れる者に出会えば、精いっぱい自分を役立てることです
崇高な存在との対話158p
備考、
大切なのは、どういう場で真理に目覚めるかではなくて、
真理に目覚めるということ、そのことです。
蒼氓。
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