Ⅰ・バコット・スミス嬢の証言
忘れ得ざる変貌の体験
一九四八年春、○○○で一連の御講話が行われました。御講話を拝聴する撰にあたった方々には、これはふたつとない、忘れることのできない体験でございました。
講話を拝聴した方々は誰方も今まで通りの自分でいることはできませんでした。
その間一分々々が最高の霊的成長と悟りの時間で、丁度目からヴェールでも剥がされたように、わたくしどもはハッキリトと悟ることができたのでございます。
紛れもない主の御臨在が余りにも強く烈しい現実と成りましたので、臨在感は時が経っても褪せることがなく、反って烈しさと生々しさとを加えるばかりでございます。
それからというもの、何時もわたくしどもが霊的なことに心を向けると、突然主様がわたくしどもの傍にいまし、
父の力が内にあり、すべては善いのだと分かるのでございます。
この御講話をこのように驚嘆すべきものに致しましたのは実際のお言葉ではなく、
お言葉の述べられかたでした。
お言葉そのものは永久にわたくしどもの記憶にあって鳴り響くことでしょう。
しかし最大の真理はお言葉なしにわたくしどもに示されたのでございます。
あの主様の御臨在の強大な力、主様を通しての父の愛、はどのように説明しても伝えきれるものではございません。
それはわたくしどもの周囲にあるどのような物質よりも現実的な、ハッキリしたものでございました。
話しての先生(原著者)が入って来られた時は、わたくしどもみんながよく存じ上げている優しい、微笑を湛ておられる方でした。暫く沈黙をなさいますと、まるで御自分をご自分肉体から息とともに追い出すかのように深い吐息をなさいました。するとお身体がフラフラと揺れておしまいになったのでございます。
すると突然驚くべき変化がおこりました。短く、鋭く、息を一つ吸い込んだかと思うと、主様がその肉体に御臨在遊ばしたのです。肉体は元の同じ肉体です
しかし全く常とは変っております。語り手は、まだ、わたくしどもが長年存じ上げ尊敬申し上げている方でございます。しかし同時に又全くの別人になっていらっしゃるのです。
驚くほどの変わりようにわたくしどもの痺れた五官では殆んど信じることができぬ程でございました。しかしそれは本当でございました。それが真実であることがわたくしどもに分かったのでございます。
今わたくしどもの前にいらっしゃるお方は世の常な
らぬ高さ、語り手(原著者)ご自身よりもズッと高いように思われました。
この驚くべき事実の力はもうどんな言葉でも語れるものではございません。
しかしそれは事実だったのでございます。
わたくしどもはもう自分のありきたりの感官の決める証拠を超えてそれを信ぜずにはいられませんでした。
今、此処わたくしどもの前に、目輝き、悠揚として迫らず、大いなる権威を以て、厳然として場内を圧しておられる方がいらっしゃるのです。真直ぐ、高く、わたくしどもの前にお立ちになり、深い荘厳なる調子で何時もの御挨拶をなさいます、
『わたしの平安をあなたたちにおくる』と。
お話が進み、わたくしどもの理解が深まるにつれて、ご挨拶は、
『わたしの平安と愛とをあなたたちにおくる』に変わっていきました。
祝福は王様がなさるように右手を挙げられて親指と人差指とでお与えになりました。
その尊厳さの前に、わたしどもの心はわれ知らず低くなり頭が下がるのでございました。
講堂中に静寂が拡がり、力の波動は暖かい流れよいにもわたくしどもの身内を過ぎり、どこにせよ不完全なところを焼き尽くし、流れゆくにつれて癒して行くのでございました。
次から次へとお話が進むにつれて、わたくしどもは自分の波動が高まり、悟りは清く澄み、日常生活を遥か高く超越した彼方へと高揚するのでございました。
夜が明け行くように無智のの闇が消え行く中で、わたくしどもはこれまでに伺ったどのような話よりも偉大なるこれらのかずかずの真理に耳を傾け乍らも、不思議なことには、そのお言葉が子供の時分から聞いたり読んだりしたのと同じであることが分かるのでした。
抜粋転載。
心身の神癒―主、再び語り給う 単行本 – 1996/4
それからとういうもの、何時もわたくしどもが霊的な事に心を向けると、突然主様がわたくしどもの傍にいまし、父の力が内にあり、すべては善いのだと分かるのでございます。
主様と内在のキリストと主様の父とは一体であることをわたしたちは学びました。
御自分では何もおできにならいないけれども、
父なる神と一体なる神我となったとき、あらゆることを成就され、すべてのものを支配されるのです。
お話が始まりますと、そのみ声は重々しく、それでいて飾り気なく、遙か彼方から響くかのようであり、又、智識を求めて従い来る人々に語る大師匠のようにキッパリと断言なさるのでした。
それでいてそのみ声は温かく、おん目差しは愛で輝き、わたくしたちの反応と主様のみ霊へのわたくしたちの理解をお歓びになるご様子とで輝くのでした。
聴衆は次第々々に生長して参りました。
時々、主様が父とおっしゃるときは、
御自身の中から湧き上る愛の情感で御自分が圧倒されるのでした。
そのような時の声は薄れ、わたくしたちのことも全くお忘れになり、
父なる神の御愛の中に突然吾をお忘れなり、イエス様とわたくしたちとの間に本当にどなたかがいらっしゃるのではないかと思う程でございました。
そのような時イエス様はきまって、
わたくしたちよりももっとイエス様に近いお方、
『息よりも近い』どなた様かに、話しかけて居られたのでした。
イエス様は神の栄光に包まれてお立ちになり、父なる神に直接に呟かれるのでした。
時には
『父よ、わたしは貴神を愛します、貴神がわたしに与えた給うた者たち、貴神の子ら、を愛します。彼らの故に貴神に感謝し奉る』とおっしゃるのがわたくしたちに聞えたこともございました。
言葉をお切りになると、
そのお顔は、形容もできない程の柔和な愛に光り、恍惚の極の光りはそのみ姿を変え、余りの烈しい光に目も盲る程で、お顔から出る輝きにわたくしたちの目は堪えることができませんでした。
その情景は、
イエス様が何かわたくしたちの得も知らぬ聖なる愛の神殿の中にでも入られたかと思うほどでございました。
かくも強烈な、かくも具体的な、かくも生々しい、周囲に集まってきている人々よりも遙かに現実的な、
父なる神の御臨を、わたくしたちはただ畏み畏んで見詰めるだけでございました。
やがてそれも薄れて消え、
そのあとにはイエス様が、栄光を超えた栄光の中に毅然としてお立ちになっていらっしゃるのでした。
イエス様の御臨在を通して愛が光り、わたくしたち一同をわけへだてなく一様に包みこみました。
わたくしたちは、
真理は、
触れたり見たりしうる以上のもの、
それが神の御臨在という真理であること、
神は愛し、働き、積極的で、ダイナミックな父であり、
沈黙の同伴者であり、
いつもわたくしたちと肩をならべていらっしゃること、
わたくしたちと共に旅して帰り、
わたくしたちと共に門に入り、
わたくしたちを守護し紿う神であり、
従ってもうこれから先はわたくしたちの家庭や生活にはいかなる恐れも要らないこと、
を悟らずにはおれませんでした。
父なる神の愛はもう間違いようもない現実となりました。
どのような大師の言葉で
もこれほど迄の悟りをわたくしたちに与えてくれるものはございません。
この英知をわたくしたちに押しつけるようにも与えて下さったのは父なる神御自身の烈しい、燃えるような、歓び溢れる愛だったのでございます。 』
心身の神癒―主、再び語り給う
マグドナルド・ベイン (著), 仲里 誠吉 (翻訳)
*****************************************************************************************************備考、
そのあとにはイエス様が、栄光を超えた栄光の中に毅然としてお立ちになっていらしゃるのでした。
今更ながら、凄い、奇跡の文章というほかない。
わたしの瞳には、恥ずかしながら光るものが流れていました。
蒼氓。