真理との邂逅 高級霊のメッセージ   

  「わたしは生命である」神の生命がわたしの中で生き給うが故にわたしは生きている。生命は神であり神は生命である。 心身の神癒 第6話6 *****あらゆることのうち最も重大なのは、神のみが生きてい給うのであり、その神が今の今御自身を顕現しつつあるのを認めることである。私の中に常に留まっておられるのは父であり、父が父御自身の業をしていらっしゃるのである。

「どうしたら神になれるでしょうか?」

 

 

 

 

   「どうしたら神になれるでしょうか」

 

 

 もちろんそんな途方もないことを聞いても、誰も答えてくれるはずがなかった。そんな折、一冊の本が目にとまった。吉田兼倶が書いた神道大意」である。兼倶は室町時代に、吉田神道を体系化した天才的な神道家である。

 

その中に「心とは神なり」という一節があった。彼はこの短い言葉からインスピレーションを得た。

 

 

「そうか、今まで神というものは、何か自分外にいるように考えてきたが、そうではなかったのか。

神さまは自分の心の中におられるのだ。いや、人間の心そのものがすでに神なのだ。

 

神になろうと思うなら、心に悪いと知ればそれを行わず、良いと思うことばかりを行っていくことだ。そうしていけば、きっと神になれる」

 

この着眼点はユニークである。

さすがといわざるを得ない。しかし言うはやすしだが、実際に実行するのはたいへんむずかしい。ほかのどんな厳しい修行よりも困難だといっても過言ではない。

人間といものは、酒の飲み過ぎは体に良くないと思っても、つい飲みすぎてしまう。タバコやギャンブルもしかりである。また、ウソや他人の悪口は良くないとわかっていながら、つ言ってしまうものだ。

自分の利益になることだったら、少しくらい悪いと思っても、「まあ、誰でもやっていることだから、これくらいはいいだろう」

と考えて、陰でこっそり悪いことをする。

良いとわかっていてもなかなか実行できないで、悪いと知りながらそれをやめられないのが人間なのである。

悲しいかな、これが浮世に生きる人間の性である。

人里はなれた山奥で誰とも接することがない生活を送っていれば、心を平安に保つことはある程度できるかもしれない。しかし、ふつうの日常生活の中でこれを実行するのは至難のワザである。それを青年・宗忠とことん頑張った。

しかし、実際にはそれがまだまだ表面意識上の、自力による修行の世界であり、そこには大きな壁があった。

 

つまり、自分が設定した善悪にだんだん縛られていき、自分で自分の壁を作っていったのである。

 

そして、そのおおきな壁を越えられないままに、彼は死の宣告を受けたのであった。

 

 

            太陽の神人

         黒住宗忠 

                 山田雅晴著

 

             第一章 大悟の道は身近にあったより。

 

 

太陽の神人 黒住宗忠―その超逆転発想は、激動の時代を生き抜く処方箋。 | 山田 雅晴 |本 | 通販 | Amazon

   

 

 

 

 

 

 

 

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               宗忠神社

 

 

 

 

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「神の御開運を祈る」  太陽の神人 黒住宗忠

ふつうは神に祈願する場合、「神に自分の開運を祈る」のであるが、本章では逆に、「神のご開運を祈る」という超・逆転の発想を紹介している。

 

このコペルニクス的転回の神観は、幕末の神道家・黒住宗忠が提唱したものである。・・・・・なぜ彼が、「神のご開運」という結論に行き着いたのか、を探っていきたい。

 

宗忠は外面的には、大本教出口王仁三郎、天風会の中村天風など波乱万丈の人生を送った人物と比較すると、生涯を岡山で暮らした田舎の一神主にすぎない。

 

ところがよく、調べてみると、宗忠は日常的にイエス・キリストをほうふつとさせる数々の奇跡を行いながら、「何事も心次第」という天風哲学に通底する生命哲学を説き、大愚・良寛のような無欲な生活をした人物であり、「平凡の中の非凡」いや「平凡の中の超非凡」ともいえる隠れた神人なのである。

 

宗忠の死後、高弟・赤木忠春は幕末に京都に進出して、不思議な縁が重なり、皇族や公家の病気治療や祈願などを行った。宗忠が死去して六年後の安政三年(1856)はやくも「宗忠大明神」の神号をいただいている。

 

文久二年(1863)には京都・神楽岡に彼をご祭神とする宗忠神社が建立され、二年後にはなんと、孝明天皇の「勅願所」にまでなっているのである(孝明天皇明治天皇の父君にあたる)勅願所とは天皇が祈願する特別な神社および仏閣のことであり、幕末動乱期において皇室が実質的な祈願をする神社として日本を陰で支えることになる。

 

これは民間の一神道家を祭る神社に対する扱いとしては異例中の異例のことで、日本の歴史上に例をみない。

 

そのため、幕末日本が生んだ不世出の神人として、「仏教に弘法大師空海あれば、神道に神人・黒住宗忠あり」と讃えられた。

 

  太陽の神人 黒住宗忠 山田雅春著 より3~4p

 

 

 

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参考、 イエスは次のようなことを言われた。

  

 神の国は、見えるような形で来るのではない  。だから、「ここにある」とか「あそこにある」などと言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。」

 

 

黒住宗忠教祖、 

 

神仏おのが心にましますに他を祈るこそあわれなりけり

 

祈りても しるしなきこそしるしなれ己が心に誠なければ

 

     

      天照太神 天命直授

             ↑

             、がある太陽を表している。(霊界の太陽)では。

 

 

 

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 備考、私の尊敬する人物です。             管理人。

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参考、

 

第2部 奇跡が起こる時

 

3 神仏への依存心を捨てよ 【 神は自分の心の中にある 】  

昭和五五年一月初めに、八幡菩薩が  『政木の守護神となる』  との神示によって降臨されてから、私自身に今までになかった感覚が一つ増した。  

 

それは、神社や仏閣に詣でて、手を合わせた瞬間に、胸にズシーンとくる感じのものである。  大きな神社でも、それを感じないところもあれば、小さなお宮やお寺でそれを感じることもある。  

たとえば去年、名古屋の有名なA神宮に行った時、手を合わせたが、どこにも神の存在を感じなかった。  ただ、神官のレベルの低い赤い光が感じられただけであった。

 それに対して、地鎮祭のようなものは礼儀的なものであって、ただ形式的に行うものだとばかり思っていたが、ある日、実際に神の降臨があったことを身をもって知るという体験を得た。  

昭和五六年の暮も迫った冬至の日、岡山の林原生物化学研究所の地鎮祭が行われた。  テント内の式場に白装束の黒住(くろずみ)教の第六代黒住宗晴教王らがうやうやしく入場し、降神の  “のりと”  をあげた瞬間、私の胸にズシーンと、あるショックが発生した。

 この全身に響く衝撃は、それまで感じることのなかったもので、神の存在を示す特殊なショックであった。  私は感激とともに眼を閉じた。  しかし、眼をつむった瞬間に、開いている時よりも明るい黄金色が、眼の中いっぱいに広がった。  

不思議に思って再び眼を開くと、テントの中はそんなに明るくはなく、むしろ眼を閉じた時よりも暗い。  また眼を閉じると、前と同じように、非常に明るく輝く黄金色であった。  

式典の終了後、社長にそのことを伝えると、社長は  『私にもその瞬間に、黒住教王が二倍にも三倍にも大きくなったように見えました。  

神は本当に降臨されたのですね』  と、当たり前のように言われた。  私は以前、神の声によって  『汝、神仏の存在を信ずることができうれば、本日を限りとして神仏に対する依存心をかなぐり捨て、自己の力のみにおいて生きていくべし』  と告げられた。

 以前、私は自分のレベルが低いのをたなにあげて、理解できないことは世の中に存在しないと、勝手に決めていた。  

しかし、神とは神の存在を知り、信ずることができる気持ちになれば、それ以降は、神に依存心を持ってはいけないこと、神にお願いしてはいけないこと、ただ誠心をもって神に奉仕する気持ちがあれば、願わなくても、神は自分の希望の一〇倍も一〇〇倍もの力を与えてくれることは自然にわかるのである。  

神前仏前にぬかずかないと神仏に心が通じないように思う人も多いが、神は人間の心を見透かすものであり、手を合わせて神前に頭を下げなくても、遠くから心の中で手を合わせることによって、心は神仏に通ずるものである。  

『神は自分の心の中にある』  のである。  形式にとらわれず、心のあり方の問題であることを自覚すべきである。

 

                                       欲望を捨てれば不可能がが可能になる

                                                                        政木和三

 

 

 

 

宗忠神社 | たびおか-旅岡山・吉備の国-

                 宗忠神社参道

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(どこまでも上には上があり際限はありません)

 

 

(どこまでも上には上があり際限はありません)

 

あなた方からシルバー・バーチと呼ばれている私は、無限に広大な霊界の知識のほんの一部を代表しているに過ぎません。

 

あなた方がさらに進歩を遂げていけば、私よりも偉大な指導者たちが私を使って、もっと高度の知識と智慧をあなた方に伝えるようになります。

もうこれでよいという最終段階はありません。

これで完全だということもありません。

 

あなた方は進歩していき、私もまた進歩します。

 

私よりも高位の霊たちの話では、その彼らよりさらに高位の霊たちがいて背後から支えてくれているということです。  

 

どこまでも上には上があり、際限はありません。

 

もし終着点というものがあって、そこに到達できるとしたら、創造の営みもそこで止まってしまうからです。  

何百万年もの長い時間をかけて、人類は現在のように肉体を進化させてきました。

ゆっくりと少しずつ、低きから高きへ、進化し、成長し、土くれから大空へと伸び上がってきたのです。  

 

徐々に獣性は捨て去られ、神性が顕れ始めました。

 

いまのあなた方のような肉体に成長するまでに、いったい何百万年かかったことでしょう。

しかもまだ、その成長は終わってはいないのです。それと同じように、あなた方は、自分たちの魂の成長にも、何百万年もかけていくことになるのでしょうか。

 

 

              シルバーバーチ

 

 

 

 

 

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あなたたちがわたしを認め、わたしの生命が久遠に活発として働いていることを認める時、わたしはわたしの神性を現す。

 

 

 

 

 

 

 第三話

 

 

 

 

11 

この状態は誰かが云うような「空白」状態でもなければ「空無」の状態でもない。又、意識が理解もしないうちにやみくもに認容することを強制されようとする際の緊張でもない。

 

 

12 

あなたたちはこのような極端な生き方は避けなければならない。そして、自分と父なる神との間にはいかなる分離もあり得ないという正しい理解に満ちた静けさを、自分の胸の中に保ち続けることである。

 

 

13 胸(ハート)の中でこう云うがよい、「わたしの中に留まり給うのは父なる神である。この神こそがみ業を為し給いつつあるのである」と。これがあなたたちの個我意識を遍在している神意識に結びつけるのである。

 

 

14 

あなたたちがわたしを認め、わたしの生命が久遠に活発として働いていることを認める時、わたしはわたしの神性を現す。わたしの生命の久遠なる特質を認めるのは、神我(キリスト)があなたたちの中で顕現しつつあるという事である。

 

天上天下にこれ以上の大きな力はない。天上天下のあらゆる権能(ちから)がわたしに与えられているのである。

これがわたしの本態であり、神の愛の現れである。わたしの生ける臨在が常に活気凛々(りん)としてあなたたちと偕にある以上、それがあなたたちにとってどういう事になるのかを胸(ハート)の中で考えるがよい。

その事をよくよく了解することの中に栄光と平安とはある。

 

 

15

思い込んでいる者もあれば、まだ夢を見ているものもいる。しかしいづれは皆、生ける神があらゆるものの中に神御自身を永遠に顕現しつつある真理に目覚めるであろう。

神の顕現は久遠であり、常在であり、あなたたちの裡なる神我として展開しつつある。

 

 

 16

 そういう風にして結果は、あなたたちや、あなたたちの接触する人々全部にとって極めて有益なものとなるであろう。なぜならば神我ーー裡なる神の力ーーは現れ出、すべての不調和は静かに融け去るからである。不調和なるものは、あなたたちがそれを信じ込まない限り、もはやあなたたちの上に力を及すことはなくなるからである。

 

 

 17

 あなたたちは、わたしを、あなたたちとは全く違ったものと心の中で考えている。聖書にある二千年前の歴史を読んで、あなたたちはわたしが過去の人物であると思っているが、しかしわたしは常にあなたたちと偕にるのである。各人一人々々の魂に同じ神のみ霊が宿っていることを銘記するがよい。わたしの父なる神の御意志を行う者が、わたしの母であり、姉妹であり、兄弟なのである。

 

18

わたしの中に生きてい給い、あなたたちの中に生きてい給うのは、同じ神のみ霊である。この真理を認容し了解することによってまた、同一の神我があなたたちの中に顕現する。なぜならあなたたちも又一切のものに対する主権を与えられているからである。わたしを信ずる者はわたい以上に大いなる事さえ為すであろう。

 

 

19

 『神我』(*I  am*)は最奥神霊意識である。神我の意識は神の意識であり、子の中に現れる父なる神である。

 

 

20

努めてこの真理を堅持することである。そうすればあなたたち一人々々の生活の中にこの真理の力が発揮されるであろう。あなたたちはすでに自覚しているのである。現に生きているのである。この事を自覚するがよい。かくして、あなたたちの生き方があなたたち一人々々の人生における最も支配的で最も重要な要因なのである。

 

 

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金持ちと貧乏の試練

金持ちと貧乏の試練

 

 

(814)

 

         神はなぜ、ある者には富と力を、ある者には貧困を与えられましたか。

 

 

「それぞれの道で試練を受ける為。しかも、ご承知の通り、この試練を選んだのは霊自身である。その霊が負けてしまうことがよくあるのだが」

 

 

(815)

            恐ろしいのはどちらなのですか、金持ちと貧乏と、二つの試練の中で。

 

 

「どちらも同じように危険なもの。貧困は神の摂理を恨みかこつ。金持ちは万事に分を超えてしまう」

 金持ちには悪への試練がたっぷりあるとすれば、また善を為す手段もたっぷりあるのではないですか。

 

 「それこそ、金持ちが為さぬところのもの。金持ちは利己的で、高慢で、貪欲になりがちだ。財が多ければその欲望もそれと共に深い。彼等は飽くことを知らぬ、自分自身に対してさえも

 

                                                      霊の書(下)

               23章平等の法  91p

 

 

 

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マクドナルド=ベイン博士を通じて述べられた講話について

 

 

 

         Ⅰ・バコット・スミス嬢の証言        

                                           忘れ得ざる変貌の体験

 

 

一九四八年春、○○○で一連の御講話が行われました。御講話を拝聴する撰にあたった方々には、これはふたつとない、忘れることのできない体験でございました。

 

講話を拝聴した方々は誰方も今まで通りの自分でいることはできませんでした。

 

その間一分々々が最高の霊的成長と悟りの時間で、丁度目からヴェールでも剥がされたように、わたくしどもはハッキリトと悟ることができたのでございます。

 

紛れもない主の御臨在が余りにも強く烈しい現実と成りましたので、臨在感は時が経っても褪せることがなく、反って烈しさと生々しさとを加えるばかりでございます。

 

それからというもの、何時もわたくしどもが霊的なことに心を向けると、突然主様がわたくしどもの傍にいまし、

 

父の力が内にあり、すべては善いのだと分かるのでございます。

 

この御講話をこのように驚嘆すべきものに致しましたのは実際のお言葉ではなく、

お言葉の述べられかたでした。

 

お言葉そのものは永久にわたくしどもの記憶にあって鳴り響くことでしょう。

 

しかし最大の真理はお言葉なしにわたくしどもに示されたのでございます。

あの主様の御臨在の強大な力、主様を通しての父の愛、はどのように説明しても伝えきれるものではございません。

 

それはわたくしどもの周囲にあるどのような物質よりも現実的な、ハッキリしたものでございました。

話しての先生(原著者)が入って来られた時は、わたくしどもみんながよく存じ上げている優しい、微笑を湛ておられる方でした。暫く沈黙をなさいますと、まるで御自分をご自分肉体から息とともに追い出すかのように深い吐息をなさいました。するとお身体がフラフラと揺れておしまいになったのでございます。

 

すると突然驚くべき変化がおこりました。短く、鋭く、息を一つ吸い込んだかと思うと、主様がその肉体に御臨在遊ばしたのです。肉体は元の同じ肉体です

しかし全く常とは変っております。語り手は、まだ、わたくしどもが長年存じ上げ尊敬申し上げている方でございます。しかし同時に又全くの別人になっていらっしゃるのです。

 

驚くほどの変わりようにわたくしどもの痺れた五官では殆んど信じることができぬ程でございました。しかしそれは本当でございました。それが真実であることがわたくしどもに分かったのでございます。

 

今わたくしどもの前にいらっしゃるお方は世の常な

らぬ高さ、語り手(原著者)ご自身よりもズッと高いように思われました。

 

この驚くべき事実の力はもうどんな言葉でも語れるものではございません。

 

しかしそれは事実だったのでございます。

 

わたくしどもはもう自分のありきたりの感官の決める証拠を超えてそれを信ぜずにはいられませんでした。

 

今、此処わたくしどもの前に、目輝き、悠揚として迫らず、大いなる権威を以て、厳然として場内を圧しておられる方がいらっしゃるのです。真直ぐ、高く、わたくしどもの前にお立ちになり、深い荘厳なる調子で何時もの御挨拶をなさいます、

 

『わたしの平安をあなたたちにおくる』と。

お話が進み、わたくしどもの理解が深まるにつれて、ご挨拶は、

 

『わたしの平安と愛とをあなたたちにおくる』に変わっていきました。

 

祝福は王様がなさるように右手を挙げられて親指と人差指とでお与えになりました。

 

その尊厳さの前に、わたしどもの心はわれ知らず低くなり頭が下がるのでございました。

 講堂中に静寂が拡がり、力の波動は暖かい流れよいにもわたくしどもの身内を過ぎり、どこにせよ不完全なところを焼き尽くし、流れゆくにつれて癒して行くのでございました。

 

次から次へとお話が進むにつれて、わたくしどもは自分の波動が高まり、悟りは清く澄み、日常生活を遥か高く超越した彼方へと高揚するのでございました。

 

夜が明け行くように無智のの闇が消え行く中で、わたくしどもはこれまでに伺ったどのような話よりも偉大なるこれらのかずかずの真理に耳を傾け乍らも、不思議なことには、そのお言葉が子供の時分から聞いたり読んだりしたのと同じであることが分かるのでした。

 

 

抜粋転載。                  

  

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心身の神癒―主、再び語り給う 単行本 – 1996/4

 

 

  

 

 

それからとういうもの、何時もわたくしどもが霊的な事に心を向けると、突然主様がわたくしどもの傍にいまし、父の力が内にあり、すべては善いのだと分かるのでございます。

 

主様と内在のキリストと主様の父とは一体であることをわたしたちは学びました。

 

御自分では何もおできにならいないけれども、

 

父なる神と一体なる神我となったとき、あらゆることを成就され、すべてのものを支配されるのです。

 

お話が始まりますと、そのみ声は重々しく、それでいて飾り気なく、遙か彼方から響くかのようであり、又、智識を求めて従い来る人々に語る大師匠のようにキッパリと断言なさるのでした。

 

それでいてそのみ声は温かく、おん目差しは愛で輝き、わたくしたちの反応と主様のみ霊へのわたくしたちの理解をお歓びになるご様子とで輝くのでした。

 

聴衆は次第々々に生長して参りました。

 

時々、主様が父とおっしゃるときは、

 

御自身の中から湧き上る愛の情感で御自分が圧倒されるのでした。

 

そのような時の声は薄れ、わたくしたちのことも全くお忘れになり、

 

父なる神の御愛の中に突然吾をお忘れなり、イエス様とわたくしたちとの間に本当にどなたかがいらっしゃるのではないかと思う程でございました。

 

そのような時イエス様はきまって、

 

わたくしたちよりももっとイエス様に近いお方、

 

息よりも近い』どなた様かに、話しかけて居られたのでした。

 

エス様は神の栄光に包まれてお立ちになり、父なる神に直接に呟かれるのでした。

 

時には

 

『父よ、わたしは貴神を愛します、貴神がわたしに与えた給うた者たち、貴神の子ら、を愛します。彼らの故に貴神に感謝し奉る』とおっしゃるのがわたくしたちに聞えたこともございました。

 

言葉をお切りになると、

 

そのお顔は、形容もできない程の柔和な愛に光り、恍惚の極の光りはそのみ姿を変え、余りの烈しい光に目も盲る程で、お顔から出る輝きにわたくしたちの目は堪えることができませんでした。

 

その情景は、

 

エス様が何かわたくしたちの得も知らぬ聖なる愛の神殿の中にでも入られたかと思うほどでございました。

 

かくも強烈な、かくも具体的な、かくも生々しい、周囲に集まってきている人々よりも遙かに現実的な、

 

父なる神の御臨を、わたくしたちはただ畏み畏んで見詰めるだけでございました。

 

やがてそれも薄れて消え、

 

そのあとにはイエス様が、栄光を超えた栄光の中に毅然としてお立ちになっていらっしゃるのでした。

 

エス様の御臨在を通して愛が光り、わたくしたち一同をわけへだてなく一様に包みこみました。

 

わたくしたちは、

 

真理は、

触れたり見たりしうる以上のもの、

それが神の御臨在という真理であること、

神は愛し、働き、積極的で、ダイナミックな父であり、

沈黙の同伴者であり、

いつもわたくしたちと肩をならべていらっしゃること、

わたくしたちと共に旅して帰り、

わたくしたちと共に門に入り、

わたくしたちを守護し紿う神であり、

従ってもうこれから先はわたくしたちの家庭や生活にはいかなる恐れも要らないこと、

を悟らずにはおれませんでした。

 

父なる神の愛はもう間違いようもない現実となりました。

 

どのような大師の言葉で

もこれほど迄の悟りをわたくしたちに与えてくれるものはございません。

 

この英知をわたくしたちに押しつけるようにも与えて下さったのは父なる神御自身の烈しい、燃えるような、歓び溢れる愛だったのでございます。 』

 

 

               

 

 

      心身の神癒―主、再び語り給う

        マグドナルド・ベイン (著), 仲里 誠吉 (翻訳)

 

*****************************************************************************************************備考、 

そのあとにはイエス様が、栄光を超えた栄光の中に毅然としてお立ちになっていらしゃるのでした。

 

今更ながら、凄い、奇跡の文章というほかない。

 

                      わたしの瞳には、恥ずかしながら光るものが流れていました。

 

                                                                                               蒼氓。

 

 

  

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人の子はあなたたちの分離信仰を克服すべくあなたたちと共に待期している。

 

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第十四話

 

 

至高ーこの上なく高いこと、最高

 

 

 

28

神我は人類として顕現した神の久遠の子である.このことを把握した時、あなたたちは肉体の中にありながら、およそ能う限りの至高のものに到達することができる。

 

 

 

29

肉体の中で生きていると肉体の影響が認められるが、このような影響は悪いものではなく、物事について深い理解を得る手段なのである。

 

 

 

30

あなたたちはそういう状態から成長して行くのである。それは丁度一粒の種子が地中に植えられると、成長し、花を開き、やがて又種子を生み出すようなものである。神のみ霊も又あなたたちの中でそれと同じことをなし給う。それは必滅、有限の状態より本来の不滅、久遠の状態へと成長する。

 

肉体の中の生命はあらゆる生命全体より決して分離してはいないのである。

 

 

 

 

31

わたしの云ったことをよく学ぶがよい、そうすればあなたたちの目からベールが取り外されるであろう。

 

人の子はあなたたちの分離信仰を克服すべくあなたたちと共に待期している。

 

 

 

 

32

神我の中には自由がある。その神我は神の久遠の子として人類の中に生きている。この巨大いなる力はありとあらゆるものを調和させて一家族とし、各人全員の中にあるみ霊はその存在の本源を認識するようになる。

 

 

 

 

 

33

このことの認識の中に自由がある。内なるものは外なるものに表現れるのであって、これが、貴人の御意志が天におけるが如く地にも行われんこと(の真実義)である。

 

 

 

           

      心身の神癒

 

 

 

        初版本 心身の神癒 | 横塚修身、もうこりたな日々

 

 

        $ヒーリングサロン フローレンス

           マクドナルド・ベイン著者