真理との邂逅 高級霊のメッセージ   

  「わたしは生命である」神の生命がわたしの中で生き給うが故にわたしは生きている。生命は神であり神は生命である。 心身の神癒 第6話6 *****あらゆることのうち最も重大なのは、神のみが生きてい給うのであり、その神が今の今御自身を顕現しつつあるのを認めることである。私の中に常に留まっておられるのは父であり、父が父御自身の業をしていらっしゃるのである。

第2話 6~11 わたしは止むを得ずしてあなたたちの言葉や表現法を用いなければならないのであるが、これは霊的真理を伝えるには全く不適当である。

 

 

第2話

 

6

先づ始めに、『吾在り』(4)、そして又

『永遠に在るべし』を徹底的に学ぶことである。

 

あなたたちの現在の状態は霊的進歩のための機会である。

 

あなたたちの今在る状態は極めて必要なものなのである。

 

およそ存在するものことごとく霊であり、

 

霊の他には何ものもありえないーーという大いなる真理を学びとるようになるとき始めてあなたたちの目より鱗が落ちる。

 

 

8

 

わたしは止むを得ずしてあなたたちの言葉や表現法を用いなければならないのであるが、これは霊的真理を伝えるには全く不適当である。しかしあなたたちは内なる霊に対して自分自身を開くことによって、

わたしの語ることが真実であることを知るであろう。

 

 

9

そこでわたしたちは、神とその子孫である人類についての大いなる真理について共に考えてみよう。

 

 

10

あなたたちは、本当のあなたたちは、外側のもの、目に見える形ではなく、また、現象我が本当のあなたたちでもない。なぜならそれはあなたたちの真我の相とは遥かかに距っているからである。あなたたちは実在の中に住んでいる意識者、天よりの声である。

この裡なる天よりの声を自覚するようになるがよい。そうすれば又わたしのことも分かるようになるであろう。

 

 

 

11

人は非常に美しい景色を観ればそれを画布に描き度くなるものであるが、その結果はただその写しでしかなく実物とは全く比較にならない。あなたたちの場合もそれと同じである。

 

 

 

 

                心身の神癒 : 主、再び語り給う                                   

                                 M.マグドナルド・ベイン著 ; 仲里誠吉訳                                                                    

                                               霞ケ関書房, 1972   

 

 

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参考、

 

 

仝上=同上

 

訳者註4    

 

神学者の説によれば、旧約聖書時代の神ヤーウェー(Yahaweh)という聖名の意味を示す定句ではあるが、その意味する処は、厳密ににいえば不明瞭であるという。その全文は I am that(又はwhat) I am. とされ、ヤーウェーの原義は(存在すること、推移させること。或は又、在らんとする者)であり、神自身が自らを称する時は Iam.或はIwill be. という。「能動的、自己顕現する存在者」(active and self-manifesting Existence)とする解釈(新教出版社、聖書大辞典、310頁が真実義に近いと思われる。 その真実義は Good I am (吾神なり)の略、このGod(神)には、超越不普遍神(インド宗教哲学にいうブラフマン「梵」と内在神(仝上アートマン)の二義があり、本書でも強調されているのはこの内在神としての I AM.である。ギリシャ化した古代ユダヤ人は神聖な神の御名の代わりにギリシャ語 KUPLOS (主)と書き、これが、新約聖書において確立され、その英訳が Christ であるという。これに定冠詞のついた the Christ は本書にあっては、

 

エス自らが、各人に内在する主(神)の意味であることを、くり返しくり返し強調し、宣言しておられる。

 

 

 

      心身の神癒 : 主、再び語り給う                                                                         

          M.マグドナルド・ベイン著 ; 仲里誠吉訳                                                                                                          

               霞ケ関書房, 1972   

  

 

 

 

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自分の意識を肉体、感覚を超越したみ霊の状態に高め、其処で自分自身の意識を通して父の力を受け、かくて永遠に君臨する強大なる力を現示するがよい。

 

 

 

第7話

 

39

 

 

外なる意識が父を自覚するようになれば、外なるものの中に父の世界が顕現れる。わたしが言葉を語った時わたし自身の意識を満たしたのはそのことであった。そしてこの言葉が実現したのである。

 

 

 

40

 

あなたたちが信じさえすれば、そのことはあなたたちにもあてはまる。よく理解することによって

自分の意識を肉体、感覚を超越したみ霊の状態に高め、其処で自分自身の意識を通して父の力を受け、かくて永遠に君臨する強大なる力を現示するがよい。

 

 

41

 

神の子には天上天下における一切の力があることをわたしは証明したではないか。

わたしを死者より挙げたこの同じみ霊があなたたちの中にも宿ってい給い。わたしと同様にあなたたちをも挙げて下さるのである。

 

 

42

 

わたしと同じようにそれをあなたたちは体験するであろう。そのためにわたしは来たのである。

 

43

 

父はわたしの語る言葉とわたしの胸の想いに歓び給う。それというのも

 

44

あなたたちがあらゆる生命を通して作動し給うわたしの父の最高の表現体となり、光を放ち、内奥の深い平安を現わし、かくして

 

無意識のうちに神性を顕現するようにならんがためである。

 

 

 

 

                                    心身の神癒 : 主、再び語り給う                                                                       

                                         M.マグドナルド・ベイン著 ; 仲里誠吉訳                                                                                                          

                                                           霞ケ関書房, 1972   

 

 

 

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[

第十三話 分離信仰の中にのみ差別があり、そのために分離を感ずるのである、従ってあなたたちは、分離を惹き起すあらゆるものをよく見分けなければならない。そうして始めてわたしを知ることができるのである。

 

20

 

 分離信仰の中にのみ差別があり、そのために分離を感ずるのである、

従ってあなたたちは、分離を惹き起すあらゆるものをよく見分けなければならない。

 

そうして始めてわたしを知ることができるのである。

 

 

21

 

目をよく開いて至ところに神を見るがよい。

 

神のこの意識は、男女各人が、愛を以て膊動している「唯一無二」の心臓と自分自身とが一体であると感ずるにつれて、地上に限りなく拡がって行く。

 

 

22

 

神の心臓(ハート)の中に久遠の愛があり、

神我(キリスト)は神の心臓と一体であり、

このキリストが人類の救い主である。

 

 

 

                                   心身の神癒

 

 

 

 

                                                   

         まさに、奇跡の御言葉であります。

 

                                                                                                                           蒼氓。

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参考。

膊動 はくどう。

 

 

  参考動画。

 

 

 

1

神は愛であり、愛は神である。 しかしそのことがなんであるかを知っている者はいない、 ただわれわれだけがそれが実在であることを知っている。 あなたたちは恐らくそれについていろいろと理論を立てて来たであろう。 しかし、そのようなことは決してしてはならないのである。 外部からの種々様々な意見に染まることなく、真理自体を開顕させるべきであり、また、こうであると最終的に断定してはならない、断定してしまえば真理に至る道が閉ざされてしまうからである。

 

2

 愛は全宇宙の中心である。この中心より絶えざる愛の流れがすべての魂、生きとし生 けるものを通じて流れている。花々を通じ、動物たちを通じ、人間と天使たちとを通じ て、この愛が中心の泉より絶え間もなく流れ、愛自身の真実の相を永遠に表現わしてい る。

 

3  

愛は鉱物における親和力である。愛は花々における本質である。愛は動物の本性と なって表れる。このことを完全に悟った時その人の全存在は愛に満たされ、肉体の全細 胞が活力を得るのである。

 

4

世に愛の他にはいかなる力もない。愛は天と地とにおける唯一・真実の力である。なぜならばそれは久遠であり、至る処に常在するからである。外なるものは過ぎ逝くが、愛は久遠に実在する、それは神の全存在であるからである。

 

5

愛について理論を立てるのは、愛の一側面にしかすぎない知的面を論(あげつら)うにすぎない。愛とは何かと理論を捏ねることは愛の力を失わせることである。あなたたちは愛なる無限生命によって創造られた者なのである。愛をこのように理解し、把握して始めて愛はその真性を現わすのである。

 

                                            

 

                                                    心身の神癒

  

                                 

                               奇跡の御言葉。                   

                                                                                          蒼氓。

 

   

 素晴らしいです、凄いです、感動です。

 奇跡以外に言葉がありません。

                                                                                             

                                                                                                          蒼氓。f:id:muratakazuhiko:20151130123509j:plain

 

 

 

 

 

 

人間の心は霊と通じ合う

 人間の心は霊と通じ合う  [TOP]  

 

それは具体的に言うとどういうことかと申しますと、人間は死んでも霊として生きているとさっき申しましたけど、死んだ人はみんな霊としてあの世で生きているんです。そういう人の中には良い人もいれば悪い人もおります。それで、例えば我々が怒ったり憎んだり悲しんだりして悪い波長を出しますと、同じような悪い心を持った霊と波長が合っちゃうんです。そうするとその霊が私たちに感応してくるんです。   私がある人を憎むとします。「あいつ悪いやつだなあ。私にこんな悪い事した。憎らしいなあ」と思いますと、悪い波長、憎しみの波長が出ていきますでしょう。そうするとあの世におりますやっぱりそういう低級な心を持った霊に通じてしまって、私に感応してくるんです。

 

 

人は「霊からのささやき」を「自分の心」と思う  [TOP]  

 

感応してくるとはどういうことかというと、私に通じまして「そうだ、もっと憎め憎め。もっとあいつに仕返しをしてやれ」というささやきをするんです。「ささやきをするなんて、私はそんなもの聞いたことない」って言いますけど、人間というのは面白いものでしてね。自分でものを考えますでしょう。それから感情を持ちますでしょう。「嬉しいな」「悲しいな」「今日は良い気分だな」とか「今日は憂鬱な気分だな」「今日はあそこにちょっと行ってみようかしら」とか、「あの人嫌な人だ」「あれが欲しいな」とか思いますでしょう。全部それは自分の心、自分自身が持った感情だと思っているでしょう。とんでもないんです。電波を出しておりますから、その電波に合った、波長に合った霊からの通信が来ておりまして、あたかも自分の気持ち、考えのように思ってしまうんです。   例えば今日皆さんはおいでになったでしょう。何か話を聞きに行こうかなと思われたでしょう。それは確かに自分の決断でおいでになったんですよ。ですけどその時にね、

 

「行ってみようかな」と思った時に電波を出しておりますから、皆さんの後ろにいる霊がですね、「行ってごらんよ。さあ準備をして行きなさい。どうしても今日行きなさい」と言うと、「どうしても今日行ってみよう」っていう気持ちになっちゃうんですね

こういうふうにですね、我々の考え、我々の気持ちは全部自分の心だと思っていますけども、霊からの影響を受けまして、それが強化・増幅されているんです。   反対に、行こうかと思ったら、行きたくなくなったりもさせます。

 

それは行くことを妨害しようとする霊からのテレパシーです。本人はそれを自分の心のように思い、「じゃ今日は止めとこう」と思って行くのを止めます。

 

このように霊には人の心を変えさせる働きもあるんです。このことを今の科学は知らない。多少テレパシーとか何とかということで分かってきた。   テレパシーの実在は今科学的に証明されているんですよ。超心理学といわれるもので、科学的にテレパシーはもう証明されでいるんです。心と心は通じるということが。   ところが、人間のいろいろなものの考え方、心の持ち方は、霊からの影響が日常たくさんあるんだということがまだ分かっていないんです。

 

宮澤賢治とでくのぼうの生き方 話・桑原啓善 でくのぼう出版 1995年刊

 

 

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第八話 107~111    水とは不可視の質料、即ち神の心であり、その中にあらゆるものが存在する。・・・

 

 

107

水とは不可視の質料、即ち神の心であり、その中にあらゆるものが存在する。この精妙な質料ですべてのもの、肉や骨でさえ、創造られるのである。形態は消えるともみ霊は永遠に残る。

 

108

しかし魂がみ霊の力によって揚げられ、肉体の波動の及ばぬ彼方に揚げられると、み霊は内なる世界に入り、其処にわたしと共に住む、わたしは即ち神我は内にもいるが外にもいるからである。それでもわたしは肉や血の影響は受けない。わたしはみ霊の力によってすでに世に打ち克ったのである。このことに肉は何ら関与するものではない。

 

109

外とは肉と血とである、しかし肉と血とは神我が地上に顕現れる手段なのである。

 

110

外における不実なものは消え去る。愛の胸内(ハート)より赦しの癒しが来るからである。

 

111

この強大なる愛がすべての罪と分離とを消し去る、あなたたちの裡に神の分霊たる意識によって罪と死を克服した方が宿っているからである。

 

 

 

         心身の神癒 : 主、再び語り給う                                                                                                                               

          M.マグドナルド・ベイン著 ; 仲里誠吉訳                                                                                                                                                                                                   

               霞ケ関書房, 1972   

 

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備考、

 

宇宙空間を満たしているのは、気体で、不可視の質料で満ち満ちている。

 

水と霊とは切っても切れない存在です。

 

 

 

 

 

 

 

 

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心身の神癒  八話

 

 

23 

 

あなたたちのあらゆる不幸の根は、自分が真理、即、生命とは別の存在であるという考え方の中にある。

だからこそわたしは、「わたしは生命である」と云ったのである。

「父とわたしとは一体(ひとつ)である。」

 

24 

 

あなたたちは真理を見ることはできない。

 

しかし、真理自体はあなたたちの

 

裡なる天国よりあなたたちの中において展開する。

 

 

25 

 

これがニセモノの教師達に対するあなたたちの守護役(まもりやく)である。

 

裡なるみ霊を案内者(ガイド)とせよ。

 

その為に、わたしはあなたたちの裡にある天国を啓示しようとしてやって来たのである。

 

26 

 

神の分霊(キリスト)が自分の中に宿ってい給うことを把握し始めると、神を外に求めることはしなくなる。

あなたたちは、既に内在の、神の分霊に気付いた人々のもとに導かれ示されて、彼らを理解するようになるであろう。

 

あなたたちの為にわたしが残した足跡に従うことによって、あなたたちは神我(キリスト)、すなわちイエスを通して語り給うたその神我を見出すであろう。

 

 

            心身の神癒 八話

 

 

 

 

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「一心法界三昧」弁栄上人は24歳のとき筑波山に二ヶ月こもって日夜念仏を唱える修行をおこなった。」

 

 

米麦そば粉で飢えをしのぎ、口で念仏を唱え、阿弥陀仏の姿を心に思い浮かべ礼拝すること、毎日、ついに一心法界三昧を会得した。

 

弁栄上人の説明によると「一心法界三昧」とはこの宇宙に存在する森羅万象のすべてが自分の心の中にあることを悟ることだという。

 

自己と他人の区別、自己と環境、さらに時間と空間の制限を越えた世界、

二元性を超えた法界と自己の心が溶け合って一つになったのが法界心である。

その法界心そのものになったというのである。

 

一つだから、自他の区別はなく、そこには内側も外側も中間もないのである。

 

我々がなぜ心の中に宇宙のすべてが存在する事が見えないかというと自我の観念に覆われているからだと言う。

 

我々は肉体や思考や感情を自己と思い込んでいるのである。今まで自分の外側に見ていた森羅万象が内も外も区別がなくなり、あるがままに映し出されていることを大円境智と呼ぶ。

 

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  瞑想、神との一体感。弁栄聖者はやはりすごい人です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第7章 神とは何か

   

――大霊はこの宇宙とは別個に存在するのでしょうか。

 

そうではありません。宇宙は大霊の物的反映に過ぎません。大霊は物的宇宙と霊的宇宙にまたがる全体の統一原理です

ハエに地球が理解できるでしょうか。魚に小鳥の生活が分かるでしょうか。犬が人間のように理性を働かせることが出来るでしょうか。星に空全体が分かるでしょうか。人間的知性を遥かに超えた大霊があなた方に理解できるでしょうか。

それはできないに決まっています。でも、口に一言も発することなく、皆さんの魂の静寂の中で霊が大霊と交わることが出来るまでに霊性を磨くことは可能です

 

その瞬間には皆さんと大霊とが一つであることを実感します。

それがどういうものであるかは人間の言語では説明できませんが、自分の魂と森羅万象とが一つであることを静寂の中で悟ります。

 

                  シルバーバーチは語る。

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③直接、神と触れ合う祈りの段階 祈りとは、神に向かっての率直な語りかけです。

 

直接的な触れ合いを求めることです。私達の祈りは、ストレートに神に届くのです。

祈りの方法は、人間に語るのと同じようにすればよいのです。

一人の相手に向かって話しかけるのと同じことです。 ところで神も守護霊も、祈る私達の心の内をすべてご存じです。

私達一人一人の魂の成長にとって必要なものや、地上での最低の生活必需品についてもご存じです。

さらには私達の因縁や、今後の人生についてもご存じです。

そうした相手に向かって、一体何を祈ったらよいのでしょうか。

自分のすべてを知っている相手に、わざわざ語りかける必要があるのかということす。 しかし、それでも祈りは必要なのです。

それは祈りを通じて、さらに神との霊的触れ合い・霊的絆が深まるからです。

これによっていっそうの喜びが得られ、現実的に心が豊かになるからです。

神に語りかけるに際し、言ってよいことと悪いことがあるのは当然です。

この世の多くの人々がするような、自分の利己的な願い事・物質的な願い事をしてはなりません。

ご利益信仰的な利己的な要求を、霊界の人々がまともに受け取るはずがありません。

低級霊のからかい・いたずらの対象となるだけです。

魂の成長とは無関係なこと、因果律を無視したような祈りは、その人にとってマイナスになるだけでなく、何よりも神に失礼に当たるのです。

何を祈ったらよいのかは、霊的真理を正しく理解した上で、はじめて明らかにされます。

 次に霊的真理に照らして、正しい祈りの内容を述べることにします。

 

真理にそって、もっと自分の心を成長させたい。その道を示し導いてほしい。

•魂の成長のための苦しみに耐える力を与えてほしい。

•自分の醜い心をなくし、弱い心を強くしてほしい。

•自分の心にもっと深く人を愛せるような、広くて純粋な愛をやどらせてほしい。

•まわりの人々が一刻も早く時期がきて、霊的真理を受け入れられるようになってほしい。

•時期のきた人と出会わせてほしい。

•自分をもっと人々のために働かせてほしい。霊界の道具として役立ててほしい。

 

こうした純粋で霊的真理にそった祈りなら、神・霊界の人々は確実に聞き届けてくださるでしょう。

人の役に立ちたい、道具として使ってほしい」という願いが、道具となる人材の現れるのを待ち望む霊界の人々を引き付けないはずがありません。

必ず導き・援助が与えられるようになるはずです。

いかなる祈りをするにせよ、私達が第一に考慮するのはその動機なのです

動機さえ真摯であれば、つまりその要求が人のために役立つことであり、理想に燃え、自分への利益を忘れた無私の行為であれば、けっして無視されることはありません。」

                                                      

                                                        シルバーバーチの霊訓(6)』(潮文社) p.56

 

 

祈りに際しては、声を出すべきか、出さなくともよいのかという問題がありますが、シルバーバーチは、地上人にとっては、声を出して祈ることで自分の考えが明確になるから声を出す方がよいと言っています。

とはいっても、それでなければならないと言っているわけではありません。

確かに声を出すと、祈ってよいことと悪いことの区別をしなければならなくなり、おのずと自分の姿勢もしっかりして、真理に合った祈りをせざるを得なくなります。

そうした心構えをつくるだけで、自分の思いの中にあった不純さが払拭されるようになります。一方、声を出すと深い世界での祈りがしにくくなるというマイナスもあります。 もし意識が集中できない時には、声を出して、祈りの言葉を心をこめて何十回、何百回と繰り返すのもよいことです。

 

神への祈りが進むうちに、やがて広大な宇宙の中に神と自分一人だけがいて、別の世界に吸い込まれるような体験をするようになるかも知れません。

 

そうなると、もはや語りかける言葉も必要なくなります。すべてが通じ、自分の体が無くなっているように感じます。

深い深い静寂の奥に吸い込まれ、静かで澄み切った無限の世界が広がり、手を伸ばせば、神に届くかのような世界に入って行きます

そうするうちに時として、さらに急激に世界が変化することがあります。自分が突然、宇宙と一つとなり神と一つとなるような衝撃的な感覚、自分が宇宙大になったような感覚に包まれます。

堰を切ったように感動が湧き起こり、体の一つ一つの細胞すべてが酔いしれるようなエクスタシーの状態に入って行きます。こうした最高の体験、一瞬ではあるが最も深い霊的体験をするようになります。

地上にいて味わう最高の世界、昔から言われてきた三昧の世界、ニルバーナと譬えられてきた世界へ参入することになります。この至福感・喜びは、地上のどんな喜びも比較になりません。まさに人間が体験する極限の心地よさなのです

それは私達が死後、霊だけの存在になった時、直接神の愛に酔いしれる感触・体験なのです。そうした喜びの極致を、地上にいながらにして味わう最も幸せな瞬間なのです。

それは地上の時間では瞬時の体験ですが、あまりにも強烈で刺激的なため、一度体験すると、もはや忘れられなくなります。 「天と地が融合した極限の瞬間――あっという間の一瞬でありながら、すべての障壁が取り除かれた時、人間は自分本来の霊性を自覚します。すべての束縛を押し破り、霊の本来の感覚であるところの法悦(エクスタシー)の状態に達するのです。

                                                       『シルバーバーチの霊訓(2)』(潮文社) p.195

 

やがて最初の静けさを実感する。何やら宙空を滑るような、あるいは深い淵へ沈み行くような、そして感覚的なものから解き放たれるような感じがする。そして次の瞬間、エクスタシーを体験する。」

 

       『マイヤースの通信 個人的存在の彼方』(スピリチュアリズム普及会) p.194

 

    

                スピリチュアリズムにおける  瞑想・祈り  ニューズレター 4号

 

 

参考、

 ねんぶつ-ざんまい【念仏三昧】の意味 出典:新明解四字熟語辞典(三省堂

心を静かにして、一心に仏を思い浮かべること。また、それによって得られる心の安らぎ。さらに、ひたすら念仏(南無阿弥陀仏なむあみだぶつ)を唱え、それにより雑念妄想を取り払うこと。

▽仏教語。「念仏」は、仏を思い浮かべること。また、南無阿弥陀仏を唱えて、阿弥陀仏を思うこと。「三昧」は、何かに集中することによって、心が安定し動かされないこと。

 

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山崎弁栄上人 から引用 

 

 

上人は安政六年二月二十日下総国 鷲の谷に生まれ、21歳で浄土門に入 って4年足らずで悟りを開いた。

上人は一切経を読破し、光明主義という一宗を起した。

新しい寺を建立するとき、遠く行脚し、一人一厘を乞うたが、貧窮者に遇 えば、喜捨で得た金や米をすべて与え、また一厘から始められた。

道を歩くにも、蟻はもちろん、若草まで踏まないようにした。

明治27、8年インドに旅して、釈尊の遺跡を巡歴し、日本に帰ってから、 阿弥陀経図絵を日本中を巡り歩いて施すこと25万部という。

お寺に泊まるときも、わざわざ下男の部屋に泊り、夜寒の町に貧者を訪れ ては、当日供養を受けた下着を脱いで与えたという。

ある信者が、上人に分厚い自然科学全書を差し上げた。 上人は、その本を左の手で持って、その本の腹のところを右の親指を当て て、ピィーとページを弾かれた。

差し上げた人が「何をなさったのですか」と尋ねると 「ハイ、これで分りました」と上人は答えられた。

その人は上人のお許しを得て、2,3箇所聞くと、上人はスラスラと答え られた。

  

 

 

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 不殺生の行為

 

蛇が衣を這い上がり、猿が無心に戯れる中、弁栄聖人は体はやせ衰え垢だらけ、髪も髭もぼうぼうになって窟に篭り、一日に十万回の念仏を称え、虚空を我が心とした我々のような凡人にはいくら想像しても想像できない境地だという。

下山して支援者の家に立ち寄った時、汚れた肌着に虱(しらみ)がうようよしていたので家人が熱湯をかけて殺そうとした。弁栄上人は「そのまま裏口に干しておいてくだされば、虱はてんで好きな方えいってしまいます。」と言って家人が虱(しらみ)を殺そうとす行為を止めさせた。その後も古くなった着物に虱がわいても決して殺さず日向に出してその去るのを待った。

また、刺した蚊を潰す者を見ると弁栄上人は「そうしてたたくと蚊の針の先が体に残って毒になります。そっと追うと針を抜いて去ります。」と諭した。弁栄上人の歌「やみのよになける蚊のこえかなしけれ血をわけにけるえにしおもえば」

手足を蚊にさされても弁栄上人がじっと血を吸わせて追われもしないので「お上人様蚊が」と申し上げると「命がけでくる蚊です。血の一滴や二滴供養してもいいでしょう。人はわずか蚊一匹のために五尺の体がとらえられて鬼の心になる。そして蚊を殺したと思っているが、自分の大切な霊性を殺していますね。」と静かにお話になった。それまで蠅たたきをつくってまで殺しまくっていた求道者たちはそれから蠅も蚊も気にしなくなったという。

 

歩く時は道に這う蟻を気をつけて避けて通られる。子供がこれにいたずらをしている所を見ると、「蟻さんの子や兄弟が泣きますよ」と丸みのあるやさしい声をかけられた。

 

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無執着

 

 ある日訪れた信徒が、上人が土鍋で白い汁を煮ているのを不審に思い、何ですかと尋ねると弁栄上人「これは白米のとぎ汁です。米の方は来客に出してしまったので、今日はそのとぎ汁を飲んでいます

 

飯米がない。村人からあるいは甘藷、あるいは麦をいただいて飢えを凌ぎ、三日くらいは食べる物なき時もあった。お困りでしたろうと尋ねる人あらば、弁栄上人「時々断食してみると、身も心も軽くなり、よい気持ちです

 

冬も火鉢はもちろん布団もない。朝早く訪ねた人が上人のおつもりに藁切れがついているのが可笑しく、わけを聞けば上人「このごろは寒さが強いから、藁を着て寝ます」

よい下駄を供養するものがあれば辞退して上人「坊主によいものはいりませぬ

予言ができるとか、 病気がなおるとか、そんな奇跡がなんの価値がありましょう。

凡夫が仏になる。これほど大きい奇跡がまたとありましょう。

 

山崎弁栄上人は人々に阿弥陀如来の知恵と慈悲の光明の中で念仏をとなえて生きてゆくことを教えた。自らの信仰を光明主義と呼んで、生涯、熱心な布教活動を続づけて多くの帰依者を得た。山崎弁栄上人は他説を破邪することがなかった。上人は全てが完全に向かう姿と見えたのである。

 

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 慢心

 

霊験を求めていた婦人が弁栄上人に帰依し45年間精進してなんらかの霊験を得るようになった。そのうちその婦人は自分の境界を吹聴するようになった。

能力をひけらかす自己評価欲求がみたされていないからで、「私をみて、私てこんなにすごいのよという行動パターンを取ってしまう。慢心もすぎれば問題を起こすのである

上人「三歳の子供だ正宗の名刀を振り回しても自他ともに傷をつくる。」

上人「水晶のコップでも穴があっては役に立たぬガラスのコップでも無疵(むきず)のものがいい」

 

 弁栄上人は自分から世間話をされたことはなく新聞にある出来事を申し上げても「左様で」と低い声で簡単に受け答えされるだけっだった。弁栄上人があまりにもおごそかだなので、窮屈かと思えば終始なごやかで親しみ深かったという。無駄口一つされずいつもニコニコされていた。

 

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弁栄上人の心境

 

不動明王を信仰する行者が

「私はときどき亡者を見ますがあなたもさだめて亡者をご覧になるでしょう。」と申し上げると

上人「いや私は生き者ばかりが相手ですから、亡者はみません。」と話された。

 

一般的に超能力や霊的な現象のあるところにはそのことに興味を持つ者が集まってくるものだ。弁栄上人は決して自分をひけらかす事をしなかった。弁栄上人はひたすら光明のただ中にいた。しかし侍者は弁栄上人の天眼が開いていことを知っていた。

 

江戸川べりを通っておられると急に立ち止まって合掌念仏された。従者がその理由を尋ねると水辺に水死体があるといわれる。従者がこれを村人に話すと丁度水死した人が上がらずに困っていた。その場所を探した所果たして溺死したい発見された。それを話されても弁栄上人は振り向きもせず、「ほうそうですか。」

 

  ある夜、「この寺で、三十歳くらいの肥った婦人が亡くなったことはないか」と尋ねられた。この寺では先代の住職の妻が臨終のとき苦しんで若くして亡くなり、あと追ううかのように続いて住職も亡くなっていた。念仏を唱えている弁栄上人の心鏡にそれが映ったのである。

 

 無限の光

 

弁栄上人はいかなる時も「それは困った。」などと言われることはなく、都合の悪いことにもよい事にも「それが良い、」「それで良い」としかお答えにならなかつた。

 

弁栄上人による涅槃とは生死の夢から覚めて真如の光が現れることだという。

私たちは無限の光と無限の命の世界からやって来てそこえ又帰る存在なのだ。正覚とは太陽が出て、心の夜が明け、今まで見てきた娑婆世界が消え宇宙全体が真実に輝いて、光明に満ちた蓮華蔵世界が現れることだというその絶対なる世界が弥陀無量光如来のことだという弁栄上人は阿弥陀仏を諸仏の中での一仏ではなく、宇宙の大生命そのものととらえた

 

念仏について弁栄上人は「心が阿弥陀に同化した上はたとえ念仏を唱えなくても一切の行為が念仏となる。阿弥陀の業が行為に表れるのならばむしろ立派な行為である。念仏とは口で唱えるだけではない阿弥陀の心より出る行為は口で唱える以上の念仏である。従来の念仏者はただ口ばかりを重く見て仏の行為をしないのは発展度が低いことだ。」と語った。

 

阿弥陀の語源はサンスクリット語のアミタユースあるいはアミターバが語源だがアミタは「無限」アユースは「寿命をもつ」の意味なので無量寿という中国語訳があてられた。アミターバはアーバの意味が「光持つ」なので無量光と訳された。阿弥陀は意味を訳さず音を漢語にそのまま当てはめたのである。そうすると阿弥陀の世界とは死んだ後の世界のことではなく、この宇宙そのものをあらわしていることになる。

 

 

 

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弁栄上人は明治の人であり、その教えは仏教用語に満ちており、我々凡人には難解である。

その霊性の高さは計り知りえない。尊敬する人物の一人であり、これほどの聖者の存在を知りえただけで感謝しております。 

 

光明高校の創設者で、昔、訪ねた時に、光明高校の校庭に上人の銅像がありました。 

    

 この方の伝記を読むたびに、めがしらがあつくなり涙がこぼれてしまいます、少なからずとも私の人生に大きな影響を与えた人物です。

 

 

 僭越ながらご紹介させていただきました。               

                       蒼氓。

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「預言ができるとか、病気がなおるとか、そんな奇蹟がなんの価値がありましょう。凡夫が仏になる。これほど大きい奇蹟がまたとありましょう。   

 

 

 

 この言葉は、大変なお悟りの言葉にきこえます。    蒼氓。

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引様・参考文献

イーハトーブ心身統合研究所

山崎弁栄上人

光明修養会