すなはち、「ひとりの霊の幸福は万人の霊の幸福,万人の霊の幸福はひとりの霊の幸福
そんな世界が天国である」
「ひとりの幸福は万人の幸福、万人の幸福はひとりの幸福」
という言葉はわれわれ人間もつかっている言葉だが、これが調和の美しさや幸福を表す言葉であるのはいうまでもない。
天国はこの言葉がそのまま通用する世界なのだ。それは調和や生命の原理である
「天の理」が形に具現された世界だからだ。
ところで『聖書」には幸福な婚礼の衣服をつけずに現れた者が入場を断られて閉め出されたという有名な話が書かれている。
私は天国の美しさと天国に入るべき霊の資格を考えてみるときには、いつもこの話を思い出さざるえを得ない。「聖書」には霊界の霊からの言葉が多く盛り込まれていると解釈する私の立場からすればこの話は多分、天国とそこに入るべき霊についていった含蓄のあるたとえ話なのだと思われる。
天国はいまいったように生命、悟り、調和の世界である。そして、それだけに天国の霊は自分自身もそれに相応した性質の持ち主になっている。そういう者でなければ天国には入れない。”婚礼の衣服”を心にまとった者でなければ入れないというわけだ。
天国の霊たちはレベルが高い天国の霊になるほど生命にも満ち理性にも悟りにもよりすぐれた者になっている。
さて、それはともかく天国は美しい国なので地獄の霊になるような例外的な霊は別として多くの霊は天国に行きたがる。
このことは私が長い間にわたって接触してきたおおくの霊に照らしてあまりにも明白である。 だが、ここで私は面白い実例をいくつか示して読者の参考に供しよう。
私は死んでまだ間もない霊たちの訪問を受けることも多い。そして彼等はそんなときにこんなことをいうことが多い。
「天国に行きたいと自分は本当に心から願っている。だが、天国の団体が自分を受け入れはくれないのだ」
彼らはこういって嘆くだけでなく、中には「どうすれば入れるのか、入るためのいい方法を知っているなら教えてくれ」
と私に懇願する霊も少なくはない。
こういう霊の多くは、まだまるで霊界のことを知らないのである。自分が死んだことさえ自覚していない者もあるくらいであった。
私はほとんどの場合つぎのように答えた。
次回に続く。
備考、世界全体が全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない。
我らに要るものは、銀河を包む透明な意志、巨きな力と、熱である。
(銀河を包む透明な意志とは摂理法則のことでは。) 管理人。
農民芸術概論網要 宮沢賢治。