まず、もっとも多くの人が持つ疑問はこんな疑問に違いない。
「生命と調和の源であり、世界の創造主ともいえる
「天の理」がなぜ地獄のような存在を許しているのか」。
しかし、その答えは意外に単純である。
一言でいえば
闇がなければわれわれは光の存在に気ずきえないからだ」
つまり一方に暗い闇があるからこそ他方に明るい光の存在がわかるのであって、闇と光は一組のものなのだ。
生命と調和に関してもこれはいえる。生命と調和の場である天国もこれと反対の地獄がなければ存在し得ないことになる。
私は人々の疑問に対し「地獄がなければ天国も存在できない」といういい方でよく答えるが、これもそういう意味からだ。
私がいままで世間の人に説いてきたことで、もっとも議論を呼んできたのはつぎのことだった。
すなわち、地獄の霊とても人間だったときの悪業に対する刑罰として地獄に落とされ、そこで刑罰を受けているわけではない。
地獄の霊は地獄が自分に合っているがゆえに自分で自由に地獄を選んでそこに行くということであった。
従来の宗教的な霊界観は、地獄は人間だったときの悪業に対する刑罰の場だという見方で、地獄のことを理解してきた。
これと私の立場を比べてみると
両者は完全に違っている。
そして、それだけにもっとも議論を呼んできたのであった。
(訳者注 スウェデンボルグの霊界観でもっともユニークなのはこの点だと現在でも評価されている)
悪霊も自分の自由で地獄を選んでそこに行くと私が説くのは、
これがまぎれもない事実だからである。
ではなぜそうなっているのか?
実はこの点は私にも初めのころは理解できなかった。
だが、いまの私の観点からいうと「天の理」が善霊にも悪霊にも、また人間にもそういう自由を許すように世界をつくっているからなのだ。・・・・・・・
続、スウェデンボルグの霊界からの手記
今村光一抄訳・編
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備考、
地獄の霊は、地獄に落とされ、そこで刑罰を受けているわけではない。地獄の霊は、地獄が自分に合っているがゆえに自分で地獄を選んでそこに行くのである。