真理との邂逅 高級霊のメッセージ   

  「わたしは生命である」神の生命がわたしの中で生き給うが故にわたしは生きている。生命は神であり神は生命である。 心身の神癒 第6話6 *****あらゆることのうち最も重大なのは、神のみが生きてい給うのであり、その神が今の今御自身を顕現しつつあるのを認めることである。私の中に常に留まっておられるのは父であり、父が父御自身の業をしていらっしゃるのである。

神に善とか悪とかいうものはなく神は今の今完全無欠に現れてい給う。

 

 

 

第1話

 

 

 

 72 

 

 わたしは愛によってこそ神の子なのである。故にあなたたちも愛によって神の息子、娘とならねばならない、それ以外の方法で真の神の息子、娘となることはできない。

 

 

 

 

73

 

 あなたたちは生れ乍らにして神の子女である、神の霊たる神我があなたたちの中にあるからである。キリストを理解し尽した時あなたたちは自分自身がキリストであることを知る。その時目覚めた胸(ハート)を通して愛の大いなる流れが注がれる。このことはまだ目覚めない人間の魂には理解しえないことである。

 

 

 

 

74

  

 あなたたちは自分達の物質的感官世界で、善にも悪にも同じ力あるように見せかけてしまっている。しかし、これは人間的感覚による理屈づけであって実在の真理ではないのである。

 

 

75

 

 神に善とか悪とかいうものはなく神は今の今完全無欠に現れてい給う。もしあなたたちが遍在し給う神が善であるといい乍ら悪も又存在するというのであれば、あなたたちの理論は間違っているーー遍在する善の中にいかにして悪が存在いえようか。

 

 

 

76

 

 考え違いが、悪の存在を信じ込ませるのである。理屈を立てずに、神の愛があなたたちを通して現われるに任せよ。そうすれば恐れを抱かしめるもの、真実の表現を妨げるものは本来の無となって解消し去るであろう。よく考えてみるがよい、そうすれば恐れと悪とが造り出されているのは実は自分の心の中であることが分かるであろう。なぜならばそれは遍在している神の中には存在しないし又存在しえないからである。

 

 

 

 

       心身の神癒 : 主、再び語り給う                                                                     

       M.マグドナルド・ベイン著 ; 仲里誠吉訳                                                                                                        

            霞ケ関書房, 1972   

 

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参考、

    分かりやすく尊徳先生が言ってます。

                     

本来からいえば、(天地自然には)善も悪もない。

善といって分けるから悪というものができるのだ。

善悪は人間の考えからできたもので、人道上のものだ。

だから人がなければ善悪はない。 人があって後に善悪があるのだ。

(人にとっては→荒野を拓く=善、田畑を荒らす=悪。猪・鹿にとっては→人の逆。

世間から見ると→盗み=悪、盗人仲間から見ると→盗み=善) 善悪も遠近も人が相対的に決めること、禍福、吉凶、是非、得失みなこれに同じ。 すべてはひとつの事象をいかに受け止めるか。 もともと一つであるものを半分善とすれば、半分は悪である。

それなのにその半分に悪がないことを願うのは不可能なことを願っている。

人が生まれたのを喜べば、死の悲しみもついて離れない。

(花→散る、草→枯れる、功徳天・黒闇天一体論)

 

 

天地自然には本来善悪はないという意味とは 

                                                                          二宮尊徳翁の言行録 12

 

 

  

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