(死んだと思ったのにまだ生きていることに驚く精霊)
精霊界があまりに人間界と似ているため、自分は死んだと思ったのに、まだもとと同じように生きていることに驚く精霊も非常に多い。そして、この中には精霊界と人間界の類似に驚くものと、死んだと思った自分が生きている不思議さに驚くものの、二とおりがある。 「われ死せるものと思いしにかくの如く生きてあり。こは如何なる不思議ぞ。わが死せると思いしは幻想なりしか? はたまた、いま生きてあること幻想なりしか?」 このような精霊はきまって、こんな自問自答に自分の頭を悩ますのだ。このような精霊には霊界から来ている指導の霊(つまり精霊にとっては霊界の経験豊富な先輩である)が教えることがある。
「汝、精霊なるを忘れまいぞ。汝、死せるというは肉体の人間として死せるなり。しかし肉体の人間として死して汝は精霊として生まれたるものなり。汝が死せるは事実なり、だが汝いま生きておるもまた同じく真実なり、益なき妄想に迷うことなかれ、汝は精霊として生きてあり、こは万に一の偽りもなき真実なり」 そして霊はおおよそつぎのように精霊に教えるのだ。
人間はもともと霊と肉体の二つからできているものであり、肉体のみが人間と思うのは浅はかな間違った考えであること。
そして肉体が死ぬと霊は精霊となって精霊界へ導かれ、そこで永遠の生の準備をすること。準備が終われば霊となって、霊界へ行き、そこで永遠の霊の生に入ること、したがって、いまはそのための準備期であること……等々といったことを説いて聞かす。 だが、これに対しては、やはり驚きを示す精霊が多い。
「われ、人間の世にありたるとき、その如きこと全く聞かず、また、われにその如きこと教え聞かすもの一人もめぐり会いたることなし。われ、初めて聞けることばかりなり。また、われ、その如きこと初めて聞きて眼の前、闇に閉されし思いと眼の前開ける思いと交々(こもごも)混じり合い、わが心騒ぐばかりなり。われ、世にありしとき愚かなりしや」つまり、人間は肉体が死ねば、それが全ての終わりだと思っていた。
また霊界とか霊などということは聞いたこともなかった、だが現実にいま、こうして死んだと思った自分が生きているのを知れば、どうしても自分のそれまでの考えが浅はかだったのは認めざるをえない。
だが、それにしても人間であったとき想像さえしなかったことばかりであるので心と頭は混乱するばかりである……というのがこの精霊の率直な感想なのだ。
エマニュエル・スウェデンボルグ
『私は霊界を見てきた』
(今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、p.45-46
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「死の自覚」と地縛霊
やがて死者は、地上の日数にして数日くらいで、少しずつ自分が死んだことに気がつくようになります。死を自覚するようになると、内在していた霊的意識と霊的感覚が急激に蘇(よみがえ)ってきます。このとき大半の者が、身体がすがすがしく軽やかになっていることに気がつきます。いつの間にか病気の苦しみや身体の痛みも完全に消えています。 しかし中には、いつまでも自分が死んだことに気がつかない者もいます。相変わらず地上生活を送っているのだと思い込んでいるのです。周りの霊たちが「あなたはもう死んだのですよ」と教えてあげても、
「とんでもない、私はこの通り生きています」
と、死んだことをいっこうに認めないばかりか、教えてくれた人に対して怒り始めることもあります。 戦争や事故でアッという間に死んだ者は、なかなか自分の死を悟ることができません。
また激しい憎しみや恨みの感情を持って死んだ者も、悪感情が災いして、いつまでも死の自覚を持つことができません。また自殺した人間の場合も、長期にわたって自分の死に気がつかないのが普通です。自分は死んだつもりでいたのに実際には生きていることを知って、何度も自殺をはかろうとします。その時、たまたま地上に霊媒体質者(幽体質素が多い人)が通りかかると、無意識のうちに霊はその地上人に憑依し、自殺へと引き込んでしまうことになります。 こうした霊たちは、「死の自覚」が持てるようになるまで地上近くに留まり続け“地縛霊”となります。何ヵ月、何年も、時には何百年もの長い間、ずっと地縛霊として地上近くをうろつき回ることになるのです。
第2章 死の瞬間と死の直後の様子より
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参考動画。youtube
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冝保愛子 実際に体験した臨死体験の説明が細かすぎてスゴイ!②
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もし問題の解決が可能であるなら、何も不安に思うことはありません。
もし、問題の解決が不可能であるなら、不安に思うだけ無駄です。
不安という気持ちは、何の役にも立ちません
If a problem is fixable, then there is no need to worry. If it’s not fixable, then there is no help in worrying. There is no benefit in worrying whatsoever
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「悩んで解決できないことはいくら悩んでも解決できない。
悩んで解決できることはもうすでに解決している。だから悩むのはやめなさい。」
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苦しみは、喜びの深さを知るためにある
しばし名言です。
いつも、たくさんのご愛読、有難うございます。×10
蒼氓。