真理との邂逅 高級霊のメッセージ   

  「わたしは生命である」神の生命がわたしの中で生き給うが故にわたしは生きている。生命は神であり神は生命である。 心身の神癒 第6話6 *****あらゆることのうち最も重大なのは、神のみが生きてい給うのであり、その神が今の今御自身を顕現しつつあるのを認めることである。私の中に常に留まっておられるのは父であり、父が父御自身の業をしていらっしゃるのである。

障害は魂の開発にとって必修の要素

 

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真理探究に没頭した年月--追及しては躓き、倒れては起き上がり、間違いながらも遂にそれまでの信仰が真実と似て非なるものと思い知ったーそうした体験が、その人の発達にとって、掛けがえのない要素となっています

 

行く手に転がる石ころを一つ一つ取り除いてもらい、困難は起きる前に簡単に片ずけられ、どんな障害が地平線に浮かんでも、まるで魔法のように消されてしまう

 

そんな何の試練も体験しない人生を送っていては、未発達で幼稚な魂にしかなりません。」

 

ーー でも、私が説いた誤った教えを聞いた人たちはどうなるのでしょうか?

 

「あなたがその人たちに及ぼした悪い影響を、必要以上に悪く考えてはいけません。

 

その人たちはその人たちなりに、そうした誤りを通して学んでいかなければならないのです。

 

葛藤と困難、苦悩と障害は魂の開発にとって必修の要素です。」

 

 

         シルバーバーチの霊訓(三)

 

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釈迦(ブッダ)の名言6

 

 

 

                                                                                                              

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               家康の日課念仏
      

南無阿弥陀仏」を日々称えた家康

 浄土宗に、「日課念仏」という念仏行がある。たとえば1000回とか1万回とか、自ら1日に称える念仏の回数を定め、日々その回数分、念仏すなわち「南無阿弥陀仏」の6字を称えつづけることである。阿弥陀仏へのひたむきな帰依を表明することによって、極楽浄土に往生することを乞い願うわけである。

 家康はそんな念仏行を、若年の頃から実践していたらしいのだが、そのきっかけについては、こんな話が伝えられている。

揚州周延画「桶狭間之戦」(桶狭間古戦場保存会『桶狭間の戦い関連写真集』より)。永禄3年(1560)、2万5000の大軍を引き連れた今川義元は、尾張桶狭間名古屋市緑区桶狭間)で織田信長の奇襲に遭い、敗死してしまった。

 桶狭間の戦い織田信長の奇襲を受けて今川義元が敗死したときのこと。今川方に従っていた当時若干19歳の家康は、わずかの残兵を率いて敗走を余儀なくされた。そして岡崎の大樹寺に逃げ込み、一族の墓前で切腹を遂げようとした。大樹寺松平家菩提寺で、浄土宗寺院である。するとこのとき、住職の登誉上人が家康にこう告げたという。

「念仏を称えて奮起なされよ」

 そして上人はにわか仕立ての道場で家康に「五重相伝」という浄土宗の秘儀を授け、さらに日課念仏を誓約させた。これによって覚悟を固めた家康は、寺門を出るや敵を蹴散らかし、活路を得た。以来、家康は熱烈な念仏者となり、日課念仏を生涯一日も欠かすことはなかったという。

 晩年になると、念仏をただ口で称えるのではなく、紙に「南無阿弥陀仏」をひたすらいくつも書き連ねることをもって「日課念仏」とするようにもなった。一種の写経である。家康自筆のものと伝えられる日課念仏の墨書が何点か現存しているが、それをみると、横長の紙に「南無阿弥陀仏」の6字がいくつも小さな字でびっしりと書き連ねられていて、信仰の篤さが伺える。

 晩年の家康が日課念仏の墨書をはじめたのは、将軍就任後のあるとき、彼が帰依していた天台僧の天海にこう諭されたためだという話がある。

「多くの戦で殺戮が繰り返され、誠に幾多の罪なき人々の命が奪われてしまいました。もし極楽往生を願うのであれば、滅罪の祈りをこめて写経に取り組むのがよろしいでしょう」

 だが家康の念仏信仰、より正確にいうならば、阿弥陀仏に対する信仰が堅固なものとなったことには、もうひとつ大きな理由があったとおぼしい。

 それは、念持仏「黒本尊」の霊験にまつわるものだ。

阿弥陀像の霊験で命拾い

阿弥陀如来立像(図版=仏教美術 天竺)。家康は阿弥陀仏を熱心に信仰し、念仏に日々励んでいたという。
明治5年(1872)の増上寺御開帳時の黒本尊を撮影した貴重な写真。『幕末・明治・大正回顧八十年史』第9輯(1933年刊)より。

「黒本尊」というのは家康が奉じた阿弥陀如来立像の俗称で、香煙に薫じて黒く変じたためにそう呼ばれるようになったとか、あるいは、かつては源九郎義経の守り本尊で、「九郎本尊」と呼ばれていたことにちなむなどといわれている。平安時代浄土教を興隆させた源信の作と伝えられているが、まだ家康が三河の一城主であった頃には、桑子(愛知県岡崎市大和町)の明眼寺という真宗寺院の本尊として門徒の信仰を集めていた。

 ところが永禄7年(1564)、この像が霊験あらたかであるという噂を聞きつけた家康は、懇望してこれを岡崎城遷座。以来、彼はこの霊像を念持仏とし、陣中にもこの像をかならず奉持したというのだが、『黒本尊縁起』にはこんなエピソードが記されている。

 激戦があった夜、陣所で家康がぐっすりと寝込んでいると、「家康、家康」という声がする。目を覚ました家康は、さては敵が忍び込んだかと身構えたが、その声は「日課念仏を忘れていようが」と戒めた。ハッと思った家康は床を抜け出し、隣室に安置してあった黒本尊の前に座し、念仏を称えはじめた。
 するとそのとき、隣の寝所で「ヤッ!」と掛け声がした。敵方に通じた間者が家康の寝所を襲い、空の夜具に刀を突き刺したのだった。直ちに不寝番の武将たちが馳せつけて、その刺客を召し捕らえたことはいうまでもない。

 家康は、黒本尊の霊告によって、すんでのところで難を逃れたのである。

 また大坂の冬の陣(1614年)で、家康が真田幸村の手勢に鉄砲で襲われて万事休すとなったとき、謎の黒衣の武者が現れて敵を退けたが、その武者、じつは黒本尊の化身であった。黒本尊をみると弾痕があり、足にはつくはずのない泥がついていたからである。

徳川家の菩寺、増上寺の三解脱門(東京都港区芝公園)。家康の念持仏であった黒本尊は最終的にはここに安置された。

 かくして勝運の仏としても崇敬された黒本尊は、やがて徳川将軍家菩提寺となった江戸増上寺に遷され、将軍家の守護仏となった。今も同寺の安国殿に秘仏として奉安されている。

 家康の一途な念仏信仰・阿弥陀信仰は、このような黒本尊の確たる利益にも支えられていたのである。