真理との邂逅 高級霊のメッセージ   

  「わたしは生命である」神の生命がわたしの中で生き給うが故にわたしは生きている。生命は神であり神は生命である。 心身の神癒 第6話6 *****あらゆることのうち最も重大なのは、神のみが生きてい給うのであり、その神が今の今御自身を顕現しつつあるのを認めることである。私の中に常に留まっておられるのは父であり、父が父御自身の業をしていらっしゃるのである。

人間の寿命は天に定められている

 

 

東洋の「天命」という言葉は、私の立場から言っても深い真理を表した言葉である。人間の寿命は天が決めているものだからだ。幼くして死ぬ者もいれば、百歳近い長寿を保つ者もあるが、これはすべて天の定めるところなのだ。  

 

私は常に「人間は天国の種子だ」と言っている(もちろん地獄の種子でしかない人もいる)。それは、人は死してのち天国にいたる可能性を宿した存在だからだ。そして、そのためには、この種子は人間である間(天の理の定めた寿命の続く間)は、人間として自らの種子を育て、死してのちは天国に至る樹木として成長しなければならないようになっている。

この観点からも、人は天命をまっとうしなければならない。そのためには、その間は死の世界との直接の接触はしないほうがいいことになっている。  

人間には普通、自分の寿命などわからない。しかし、「天の理」にはわかっている。寿命は、霊の世界にあるそれぞれの人間の“戸籍簿”に登録されているようなものなのだ。  

このように、あの世とこの世はつながったひとつの世界なのだが、「天の理」は世界をそのようにつくりながら、一方ではそのことを人間にはわかりにくくしている。そして、ここに「天の理」の二段構え、三段構えの知恵が隠されている。   「天の理」の測りがたい知恵のことを知らないと、霊の世界のことは正確には理解しにくい。しかし「天の理」なるものが、この世もあの世も含めた全世界をつくっている根本原理だということだけは忘れないでほしい。

 

 

 

 

 

         エマニュエル・スウェデンボルグの 霊界 ―― Ⅱ

 

           人間は、霊界に支配されている

 

         E・スウェデンボルグ・著 今村光一・訳

            中央アート出版社 2000年刊

 

f:id:muratakazuhiko:20151130123509j:plain

その本来の使命は各自が自分の力で神との直接の繋がりを待つべきであり神保者(※)は無用であることを教えることにある。 (※キリスト教で説くイエスのように神との仲立ちをする者───訳者)

 

 

われわれメンバーにとってはシルバーバーチは同席しているメンバーとまったく変わらない実在の人物である。

彼が常に訴えるのは理性であり、行いの試金石は動機であり、望みとしているのは自分を役立てることのみである。

 

慈悲の心と思いやりと理解力に溢れるシルバーバーチは決して人を諌めることはしない、しばしば非難の矛先を組織へ向けることはあっても、決して個人へは向けない。

 

援助の要請も絶対に断らない。自分が役に立つ可能性があればいかなる労苦もいとわず、いかに難しい説明も試みてくれる。  

初めて出席した招待者が礼を述べると、シルバーバーチはきまって、

 

礼は神に述べなさいと言う。

そして〝私は一介の僕に過ぎず、

礼を述べていただくわけにはまいりません。

 

すべては神へ捧げるべきです〟と述べる。

 

と言うのも、シルバーバーチの主張するところによれば、

かつての使者によってもたらされたメッセージがその使者を崇める者たちによって影が薄くなってしまっている。

 

したがって我々がシルバーバーチに感謝するようになれば、それは何時かはシルバーバーチという使者を崇めてメッセージは二の次となり、ついには本来の使者を台無しにしてしまいかねないというのである。

 

その本来の使命は各自が自分の力で神との直接の繋がりを待つべきであり

 

神保者(※)は無用であることを教えることにある。 

 

(※キリスト教で説くイエスのように神との仲立ちをする者───訳者)

 

 

               シルバーバーチ霊訓(5)まえがき (編者)

 

 

***************************************

 

 

 

f:id:muratakazuhiko:20151130123509j:plain

神の美について

 

神の美について

                                           

 

                                                          『ルーミー詩撰』

                                     メヴラーナ ジャラールッディーン・ルーミー

 

神の美について 1

 

 

 

王侯たちは大地に口づける、

大地は美をもたらすがゆえに。

神がその極上の杯から美をひとしずく

埃まみれのこの大地に混ぜ合わせたもうがゆえに。

 

優しき恋人よ、埃まみれの口づけでさえ

百の陶酔をもたらすならば

考えてもみよ、混じりけのない「それ」と

交わるときの歓喜はいかばかりか!

 

 

 

1. 『精神的マスナヴィー』5-372. 共有: 共有

 

 

 

 

 

 

ジャラール・ウッディーン・ルーミー   

1207年9月30日 - 1273年12月17日 ペルシャ語文学史上最大の神秘主義詩人である。

 

神秘主義(しんぴしゅぎ、英: mysticism)とは、絶対者(神、最高実在、宇宙の究極的根拠などとされる存在)を、その絶対性のままに人間が自己の内面で直接に体験しようとする立場のことである

 

 

 

..............................................................................

 

埃(ほこり)

 

 

f:id:muratakazuhiko:20151130123509j:plain

真理は我らの裡に

 

 

真理は我らの

 

 

 

                    『ルーミー詩撰』

 

 

             メヴラーナ ジャラールッディーン・ルーミー

 

 

 

真理は我らのに 1

 

木立は繁り枝には果実あふれ

蔓草は曲線を描いて緑に光り

スーフィは一人、木陰に座す

瞼は閉ざされ、頭は膝の上に

瞑想の海深く沈んで動かない

 

何ゆえに、と、問う者がある

 

何ゆえに目を閉じているのか

慈愛に満ちた神の御しるしを

探し求めていたのではないか

目を開け、汝の周囲を見渡せ

これぞまさしく神の御しるし

 

それなら、と、その人は言う

 

御しるしなら常にここに在る

これ、という形や印も無しに

我が体内の奥深く、心の中に

 

巡る季節を映して梢が揺れる

世の美とは姿や形に宿るもの

次から次へと移り変わるもの

 

唯ひとつ、完璧なる人の胸に

 

永遠に輝ける果樹園を除いて

 

 

 

 

 

 

 

1.『精神的マスナヴィー』4-1358. 初期の神秘主義者ラービア・アル=アダウィーヤの伝説として語られる寓話。ある春の日に、彼女は家の中に引きこもり頭を垂れていた。「外へお出かけになりませんか」、彼女の女召使いが話しかけた。「神の造りたもう美をご覧になってはいかがですか」。ラービアは答えた、「中へ入って、美を造りたもう御方をこそご覧なさい」。

 

 

******************************************************************************

 

参考、

 

  リ・うち 「裏」に同じ。日本では、物の内側、うちの意に用いる。

 

 

 ******************************************************************************

 

 

 

               

f:id:muratakazuhiko:20151130123509j:plain

人間の心(意識)の実体を明らかにした画期的な「意識論」

 

 霊界人は地上人のような、””がないにもかかわらず、霊界で高度な思考活動をしています。この事実は””だけが思考を可能にする器官ではないということを示しています。「霊的次元(霊体)に思考活動をする器官・精神活動をする器官がある」ということです。それが「霊の心」です。地上人は「霊体」と肉体という二種類の人体から構成されていますが、「霊体」と「肉体」のそれぞれに思考活動をする”心”のような器官があるのです。スピリチュアリズムは、人間の意識(心)は”脳”だけから発するものではないことを明らかにしています。

 

シルバーバーチの霊訓は、こうしたスピリチュアリズムの見解を推し進め、より精緻な「意識論」を展開しています。シルバーバーチは、地上人が”心”として感じるものには二つのソースがあると言います。「霊の心」から発する霊的意識と、”脳”から発する肉体本能意識です。地上人には、これらが渾然一体となって一つの”心”(意識)として感じられるのです。「霊の心」と「肉の心」は同一場所に重複して存在しています。そのため地上人には、二つの異なる心(意識)が一つのもののように認識されるのです。地上人が”心”として自覚しているのは、実は「霊の心」内容(霊的意識)と「肉の心(肉体本能)」の内容(肉体本能的意識)合わせたものなのです。こうした見解はまさに、これまでの心理学や脳科学、また宗教や思想では想像もつかない画期的なものと言えます。

 

 

 

シルバーバーチの霊訓の人間観4

人間の心(意識)の実体をあきらかにした画期的な

「意識論」抜粋。

*****************************************************************************************************

 

必読を進める。                       

                               蒼氓。

*****************************************************************************************************

 

 心で心に祈れよ。  

                           黒住宗忠。

 

 

****************************************************************************** 

 

 

 

花の美しさは花のためにあるのではなく

その美しさを愛でる者のためにあります  

 

 

どんなに美しい花でも、自分自身のために咲いているのではありません。  

その花を美しいと思う人達のために咲いているのです。  

まわりに美しいと感じてもらうことが花の喜びです。  

 

それと同様に

 

私たち人間も、花のような美しさをまわりの人達に伝えることがとても大切です。

 

幸せな毎日を送るためには、光り輝く笑顔を忘れないことが何より大切です。

 

                                           

   

    花は優しく、美しく、微笑みかける

            神様からの贈り物です。

 

<img

霊主肉従の努力(霊優位のための自己コントロール)

 

「霊主肉従」と「肉主霊従」

 

私たちの心は、霊本来の意識(霊的意識)と、肉体に由来する本能的意識の二つから成り立っています。

地上においては、この霊的意識と本能的意識を”心の内容”として認識しています。

ところがこれら二つの意識の方向性は相反しているため、心の中で絶えず霊と肉とが葛藤するようになります。

 

地上という物質世界にいるかぎり、本能的意識(肉体的意識)が力を持ち、簡単に霊的意識を閉じ込めてしまいます。その結果、本能的意識が心の中心を占めるようになります、心全体が”利己性”を帯びるようになります。こうした心の状態を「肉主霊従」と言います。「霊主肉従」は、心が霊優位になつた状態のことです。地上人の心は、「霊主肉従」か「肉主霊従」のいずれかの状態にあります。また一日のうちでも、この二つの状態の間を揺れ動いてます。

 

地上人は、大きく「霊主肉従」をベースにしている人間と、「肉主霊従」をベースにしている人間と二つに分けることができます。肉体を持っているため、一日中すべての時間を完全な霊主肉従の状態で過ごせる人はいません。誰でも霊主肉従の清らかな時間と、本能的意識(物質的意識)に支配された時間をともに持っていますが、全体として見たとき「霊主肉従」の方が多い場合には「霊優位の人生を送っている」と言えます。

 

現在の地球上では、霊優位の人生を送っている人はごくわずかです。大半の人間が、物質的欲望にどっぷり浸っかった生き方をしています。日常のほとんどの時間が「肉主霊従」となっています。

 

霊主肉従は霊的成長のための第一条件

 

霊的成長をなすためには、心を「霊主肉従(霊優位)」の状態にすることが大前提となります。霊が肉体(物質)に抑え込まれ身動きできない状態では、とうてい霊的成長をなすことはできません。

 

「霊主肉従」の状態は、霊的エネルギーが取り入れられて霊的意識が大きくなったときに可能となります。心が「霊主肉従」になると、肉欲消え去り、エゴ的思いがなくなります。そして周りりの人々に対して愛の思いが自然に湧くようになります。また心の底から澄み切ったすがすがしさや心地よさを実感するようになります。深い祈りなどによって霊的エネルギーが多量に取り入れられると、心がすっきりして明るくなるのはそのためです。自分の心から利己性が消え去り、周りの人々に対する愛の思いが深くなり、自分自身の心の純粋さに驚くようになります。

 

それとは反対に「肉主霊従」の状態に陥ると、肉欲の思いが強くなり、重苦しさ・暗さ・寂しさ・孤独感が心を占めるようになります。そして周りの人々に対して批判的思いが湧くようになります。それは霊的エネルギーが枯渇しているために引き起こされる現象です。現代人の多くが「肉主霊従」の中で寂しさ・虚しさから逃れるために退廃的な娯楽に興じたり、酒やセックスやドラッグに溺れ(おぼ)れています。

 

 

宗教の修行の究極の目的は「霊主肉従」

 

宗教には、さまざまな戒律や修行方法があります。現代人の多は、こうした戒律や修行を時代遅れのもの・意味のないものとして片付けようとします。しかし霊的真理に照らしてみると、戒律や修行にはそれなりの意味があることが分かります。従来の宗教における戒律や修行は、「霊主肉従」の状態をつくりあげるための手段であったのです。

 

戒律や修行は、物欲・肉欲・にとらわれがちな地上人の心に足枷(あしかせ)をはめ、放縦にながされないようにするための霊的手段です。物欲まみれた日常意識を断ち切って、より次元の高い心境を持つためには戒律や修行が重要な働きをします。地上の宗教にはいろいろな種類の修行方法がありますが、それらの本来の目的は、地上人の心を霊主肉従の状態に導くことにあったのです。すべての修行法の目的は、霊主肉従をもたらす」という一点に集約されます。

 

 

  「霊主肉従」のための具体的な実践内容

 

 

霊主肉従のための努力とは、物欲・肉欲に流されないストイックな歩みを心がけることに他なりません。スピリチユアルリズムの”霊的人生”とは健全な禁欲的生活を送ることなのです。

だは、スピリチュアルリズムでは「霊主肉従」のために、具体的にどのような方法を勧めているのでしょうか。私たちは霊優位の状態を保つために、どのような努力をしたらよいのでしょうか。それを整理すると次のようになります。

 

 1、肉の放縦にストップをかけるための努力(本能の対しての足枷をはめる)

 

・物質(衣食住)を必要以上に求めたり執着しない。何とか生活できるレベルで良しとし満足する

 

 ・飽食・過度の飲酒を慎む

 

・ セックスの放縦に流されない

 

  2.霊体と肉体バランスをとるための努力

 

   適度な全身運動をする

 

  入浴・水浴などを上手に利用する

  

 3、霊的エネルギーを取り入れるための努力

 

   ・霊的真理をじっくり読む

 

   ・瞑想・祈りをする

   

   ・霊的心境の高い人と会って話をする

 

    ・心を高めるような良い音楽を聴く

 

以上が、霊主肉従のための具体的な実践内容です。ここでは1-2-3と霊優位のレベルが高くなっていきます。こっれらを実行するためには、強い決意と忍耐が必要とされます。それなくしては霊主肉従は成功しません。霊的成長の大前提となる「霊主肉従」は、絶え間ない厳しい内面の闘いから達成されるようになるのです。

 

 

 霊的真理の実践内容(霊的人生の実際)/続スピリチュアルリズム入門 

 

 

*********************************

 

 

 参考、

ダスカロスは7つめの約束を「内省」と呼んで、特にその重要性を強調した。一日の終わりに、自らの感情・思考・行動を顧みて、自分を裁くことも弁護することもなく、三者として客観的に観察する。 そして、不備・不足があれば、より良い感情・思考・行動をシュミレーションしてみる……。 これを習慣化することによって、「感情と想念をコントロールしてエゴイズムを減らし、兄弟姉妹であるすべての人々を愛する」ようになること、それこそ真理の探究者にとって最も大切な修養だと、ダスカロスは説いたのだ。ここに、彼が遺した教えの最大の特徴がある――。  

 

 

f:id:muratakazuhiko:20151130123509j:plain

 

 

③本能的欲望のままに、地上時代の快楽を求め続ける未熟霊ーー”地縛霊”

 

霊界に入っても死を自覚せず、いつまでも生きていると錯覚している霊(自縛霊)の中には地上時代と同じように物質的・本能的欲望を追求し続ける者がいます。彼らは地上の本能的人間に働きかけて、間接的に肉体的快楽を味わったり、地上人をそそのかして悪の道にさ誘い込んだりします。

 

そうした霊の多くが地上生活において肉体的快楽を最優先して求めてきました。そのため肉体的快楽の刺激が魂(霊的心)にまで染み込み、肉体を脱ぎ去った後も、それが心を占めるようになっているのです。彼らの意識は常に地上に向けられ、いつまで経っても霊的向上の意欲が芽生えてきません。結局、彼らは地上時代と同じように肉体的快楽を求めて活動することになります。地上の酒飲みや麻薬中毒者・淫乱者の背後から忍び寄り、その肉体を共有して(*地上人に憑依して)快楽の感触を味わおうとするのです。こうして霊界に行ってからも、さらなる罪をつくり続けることになります。

 

またこの手の未熟霊の中には、意図的に地上人のオーラの中に侵入、悪質な憑依現象を引き起こす者がいます。このタイプの未熟霊は典型的な「低級霊・邪悪霊」で、彼らが存在する場所は、地上に近い幽界の最下層に限られます。特に地上人の物欲・本能欲の渦巻くような場所にたむろして住みつ着きます。

 

 

           (3)霊的世界からの妨害者

                 低級霊・邪悪霊

 

            スピリチュアリズム普及会 第一公式サイトより

                          必読を進める。

*****************************************************************************************************

 

 (一)霊主肉従の努力(霊優位のための自己コントロール

 

「霊主肉従」と「肉主霊従」 私たちの心は、霊本来の意識(霊的意識)と、肉体に由来する本能的意識の二つから成り立っています。

 

地上においては、この霊的意識と本能的意識を“心の内容”として認識しています。

ところがこれら二つの意識の方向性は相反しているため、心の中で絶えず霊と肉とが葛藤するようになります。

地上という物質世界にいるかぎり、本能的意識(肉体的意識)が力を持ち、簡単に霊的意識を閉じ込めてしまいます。

その結果、本能的意識が心の中心を占めるようになり、心全体が“利己性”を帯びるようになります。

 

こうした心の状態を「肉主霊従」と言います。それとは反対の状態、すなわち霊的意識が本能的意識を抑え、心全体を支配するようになることを「霊主肉従」と言います。

「霊主肉従」は、心が霊優位になった状態のことです。

地上人の心は、「霊主肉従」か「肉主霊従」のいずれかの状態にあります。

また一日のうちでも、この二つの状態の間を揺れ動いています。

地上人は、大きく「霊主肉従」をベースにしている人間と、「肉主霊従」をベースにしている人間の二つに分けることができます。

肉体を持っているため、一日中すべての時間を完全な霊主肉従の状態で過ごせる人はいません。

誰でも霊主肉従の清らかな時間と、本能的意識(物質的意識)に支配された時間をともに持っていますが、

全体として見たとき「霊主肉従」の方が多い場合には「霊優位の人生を送っている」と言えます。

現在の地球上では、霊優位の人生を送っている人はごくわずかです。

大半の人間が、物質的欲望にどっぷり浸かった生き方をしています。日常のほとんどの時間が「肉主霊従」となっています。

 

 

 

               続スピリチュアリズム入門> 第2部 霊的真理の実践

   (霊的成長のための実践論)  ――第2章 霊的真理の実践内容(霊的人生の実際)

 

***************************************************************************************************** 

 

 

 

 

f:id:muratakazuhiko:20151130123509j:plain